きのした まさなお
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 龍造寺家臣 |
| 大名家 | 龍造寺 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・剛毅 |
木下昌直は龍造寺隆信の家臣で、鍋島直茂の配下として各地を転戦した。天正12年(1584)の沖田畷の戦いでは、退却する鍋島隊の殿(しんがり)を務めて生還したと伝わる。後世「龍造寺四天王」の一人に数えられることがある。
目次
龍造寺家の部将
木下昌直は戦国時代の肥前の武将で、龍造寺隆信に仕えた。京都の出身とされ、木下覚順(伊予守)の養子になったという。生没年は伝わらない。戦場では鍋島直茂の配下に属した。
永禄5年(1562)の梶峰城(佐賀県多久市)攻めでは、敵将内田治部少輔を討ったとされる。天正6年(1578)の梅尾城攻めでは、小代親忠の降伏を仲介したと伝わる。
沖田畷の戦い
天正12年(1584)3月24日、隆信は島原半島に出陣し、有馬晴信・島津家久の連合軍と戦った。沖田畷は湿地の中を通る細い道(畷)である。大軍の龍造寺勢は動きを封じられて敗れ、隆信は討死した。
昌直は鍋島直茂の別働隊にいた。退却する鍋島隊の殿(最後尾で追撃を防ぐ役)を務めて戦い、生還したと伝わる。
龍造寺四天王と晩年
昌直は成松信勝・百武賢兼・江里口信常・円城寺信胤とともに「龍造寺四天王」に数えられることがある。四天王に挙がる人物は資料によって異なり、5人の名がみられる。昌直以外の4人は沖田畷で戦死した。
文禄元年(1592)の文禄の役では鍋島直茂に従って朝鮮に渡ったとされる。のちに出家して生安と号した。子の四郎兵衛は鍋島氏に仕え、子孫は佐賀藩士として続いたという。
ゆかりの地
- 沖田畷古戦場(長崎県島原市):龍造寺隆信が討死し、昌直が殿を務めたとされる戦場























