もうり たかもと
| 地域 | 中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利氏 |
| 大名家 | 毛利氏 |
| 家紋 | 一文字に三つ星 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 直垂に具足 |
| 武将タイプ | 縁の下の実務派当主 |
毛利隆元(もうり たかもと)は、毛利元就の長男で、毛利家の当主である。弟には吉川元春と小早川隆景がいる。父と弟たちの活躍の陰に隠れがちだが、隆元は財政や内政、周りの大名との外交で毛利家を支えた。しかし中国地方の制覇を目前にした永禄6年(1563年)、41歳で急死した。
- 大永3年(1523年)、毛利元就の長男として生まれる。天文6年(1537年)から大内義隆のもとで人質として過ごし、「隆」の字を与えられた
- 天文15年(1546年)ごろ家督を継いだが、実権は父の元就が握り続けた。厳島の戦い(1555年)や防長経略をともに進めた
- 永禄6年(1563年)、尼子攻めに向かう途中の安芸佐々部で急死した。死因は食中毒とも毒殺ともいわれ、はっきりしない
人質から当主へ
隆元は15歳のとき、周防の大名・大内義隆のもとへ人質として送られ、山口で数年を過ごした。義隆からは名前の一字「隆」を与えられている。帰国したのち、天文15年(1546年)ごろに家督を継いだ(天文16年ごろとする説もある)。
ただし、実際に毛利家を動かしていたのは父の元就だった。隆元は自分の書状の中で、自分には才能も器量もないと書いたことが知られている。謙虚で繊細な人柄がうかがえる。
厳島の戦いと毛利家の拡大
天文20年(1551年)、大内義隆は家臣の陶晴賢に討たれた。毛利家は当初晴賢と協力していたが、やがて手を切ることになる。このとき、晴賢と決別すべきだと強く主張したのが隆元だったとされる。
弘治元年(1555年)、毛利軍は厳島の戦いで陶晴賢を破った。続いて周防・長門へ攻め込み、弘治3年(1557年)に大内氏の旧領を手に入れた(防長経略)。同じ年、元就は三人の息子に兄弟の結束を説く「三子教訓状」を書いている。「三本の矢」の話はこの教訓状をもとに後世つくられたものだが、教訓状そのものは今も残っている。
出雲への途上での急死
永禄6年(1563年)8月、隆元は出雲の尼子氏を攻める父のもとへ向かっていた。途中、安芸の佐々部(広島県安芸高田市)で家臣の和智誠春(わち まさはる)のもてなしを受けたが、その翌日の未明に急死した。
死因は食中毒とも毒殺ともいわれ、真相は分かっていない。元就はのちに、案内役を務めた赤川元保や和智誠春を処罰している。隆元の跡は、まだ11歳だった子の毛利輝元が継いだ。
毛利隆元をめぐる人物
ゆかりの地
- 毛利隆元墓所(広島県安芸高田市吉田町):郡山城跡の中にある隆元の墓(常栄寺跡)
- 毛利隆元逝去の地(広島県安芸高田市高宮町佐々部):隆元が急死した地。市の史跡
- 吉田郡山城跡(広島県安芸高田市):毛利氏の本拠。国の史跡
この人物をもっと知る本
- 【評伝】岸田裕之『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』(ミネルヴァ書房・ミネルヴァ日本評伝選):元就の生涯を通して、隆元との父子関係も読み解ける
- 【評伝】光成準治『毛利輝元』(ミネルヴァ書房・ミネルヴァ日本評伝選):隆元の急死で跡を継いだ子・輝元の評伝





















