すずき しげとも
| 地域 | 近畿・関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 雑賀衆・徳川系 |
| 大名家 | 雑賀衆 |
| 家紋 | 丸に三ツ足烏 |
| 主武器 | 鉄砲・太刀 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 名射手・仕官 |
鈴木重秀の子(または一族)。関ヶ原の戦い(伏見城攻撃)で鳥居元忠を討ち取る武功を挙げ、後に水戸徳川家に仕える。
雑賀衆の一族
重朝は、紀伊の鉄砲集団・雑賀衆を率いた鈴木家の一族です。「雑賀孫一」として知られる鈴木重秀の子、または一族とされます。
鉄砲の名手
重朝も雑賀衆の一員として、鉄砲の扱いに優れていたと伝えられます。
雑賀衆のその後
1585年、豊臣秀吉の紀州攻めによって雑賀衆は制圧されました。その後、重朝は秀吉に仕えるようになったとされます。
豊臣家の鉄砲頭
重朝は、豊臣家のもとで鉄砲隊を率いる役目を担ったと考えられています。
関ヶ原の戦いの前哨戦
1600年、関ヶ原の戦いの前に、西軍は徳川方の伏見城を攻めました。重朝もこの攻撃に加わりました。
鳥居元忠を討つ
伏見城の戦いで、重朝は城を守っていた鳥居元忠を討ち取ったと伝えられます。
元忠との対面
伝承では、重朝は傷ついた元忠と向き合い、名乗り合った上で討ち取ったとされます。
関ヶ原の後
関ヶ原の戦いで西軍が敗れた後、重朝は浪人となりましたが、のちに伊達政宗に仕えたとも、水戸徳川家に仕えたとも伝えられます。
水戸藩での雑賀家
重朝の子孫は、水戸藩に仕えて「雑賀」を名乗ったといわれます。
最期
重朝は1623年に亡くなったとされます。
鉄砲が変えた戦い
戦国時代の後半、鉄砲は戦いのあり方を大きく変えました。雑賀衆は、その鉄砲の技術で名を上げた集団でした。
父重秀との違い
父(または一族)の重秀が石山合戦で織田信長を苦しめたのに対し、重朝は豊臣政権のもとで戦う道を選びました。
史料の少なさ
重朝の生涯にはわからない部分も多く、記録によって内容が異なることもあります。
伏見城の戦い
伏見城の戦いは、関ヶ原の戦いの前哨戦として、西軍の大軍が鳥居元忠の守る城を十日以上にわたって攻めた戦いでした。重朝の鉄砲隊も、この攻撃に加わっていました。
敵味方を超えた敬意
重朝と元忠の対面の伝承には、敵である元忠の忠義に敬意を払う武士の姿が描かれています。こうした話は、江戸時代の人々にも好まれて語り継がれました。
雑賀孫一
重朝の父とされる鈴木重秀は、「雑賀孫一」の名で知られる雑賀衆の鉄砲の名手でした。
水戸徳川家に仕える
関ヶ原の戦いの後、重朝はのちに水戸徳川家に仕え、子孫は「雑賀」の名を名乗ったとされます。
雑賀の名
雑賀衆の鉄砲の技は、重朝らを通じて江戸時代にも伝えられました。
重朝の評価
重朝は、雑賀衆の鉄砲の技術を受け継ぎ、伏見城の戦いで鳥居元忠を討ち取った武将です。その名は、関ヶ原の前哨戦の重要な場面とともに語られています。
このイラストについて
甲冑姿の武将が火縄銃を構え、雨の中、炎の上がる城を背にした姿です。
手にした火縄銃は、重朝が属した雑賀衆の最大の武器だった鉄砲を表しています。背景の燃える城は、重朝が加わった伏見城の戦いをイメージしたものです。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
紀伊北部の雑賀荘を中心とした土豪たちの集団。鉄砲の扱いに優れ、他の勢力に雇われて戦う傭兵集団としても知られた。
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