吉見広頼 | 毛利氏に従った石見津和野の吉見氏当主

よしみ ひろより

地域中国
所属勢力・属性毛利家臣
大名家毛利
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ堅実・忠義

吉見広頼(?〜1613)は石見津和野の国人吉見正頼の子。毛利隆元の娘を妻とし、毛利氏のもとで1万5000石余を領した。九州平定や小田原攻めに従軍したが、朝鮮出兵には病で加われず、嫡男元頼が代わって渡海した。関ヶ原の後は萩へ移った。

目次

津和野の吉見氏

吉見氏は石見国津和野(島根県津和野町)の三本松城を本拠とした国人である。広頼の父吉見正頼は陶晴賢に背き、天文23年(1554)には三本松城を陶軍に包囲されたが持ちこたえた。正頼は毛利元就と結び、弘治3年(1557)には元就とともに大内氏を滅ぼした。その功で長門国阿武郡などを与えられた。

広頼は正頼の子である。三本松城をめぐる陶方との和議の際には、人質として出されたとされる。毛利氏から祖先大江広元の「広」の字を与えられて広頼と名乗ったという。妻は毛利隆元の娘(津和野局)で、毛利輝元の姉にあたる。妻の死後は内藤隆春の娘を継室に迎えた。

毛利軍の一員として

天正10年(1582)、父から家督を譲られた。天正14年(1586)の豊臣秀吉による九州平定では、吉川元春・小早川隆景らとともに九州へ渡った。豊前の香春岳城攻めの働きで、秀吉から感状を受けたとされる。

天正18年(1590)の小田原攻めでは毛利水軍に加わり、伊豆の下田城攻略に参加した。文禄の役では病のため出陣できず、嫡男元頼が代わって朝鮮に渡った。元頼は文禄3年(1594)に津和野で病死した。

萩への移住と吉見家の終わり

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、毛利輝元は周防・長門の2か国に減封された。吉見氏も津和野を離れて萩(山口県萩市)に移り、所領は大きく削られた。津和野には代わって坂崎直盛が入った。

家督を継いだ次男広長は、萩移住の後に出奔した。のちに帰参を許されたが、元和4年(1618)に輝元に討たれた。広頼は慶長17年(1612)に吉川広家の子を養子に迎え、翌18年6月20日に没した。この養子はのちに毛利姓を名乗り、吉見氏の名跡は絶えた。

ゆかりの地

  • 津和野城跡(島根県津和野町):吉見氏の本拠三本松城の跡

参考にした資料

毛利家

主家

毛利元就毛利輝元の肖像イラスト

家臣団

三浦元忠三浦元香乃美宗勝井上元兼井上就一佐波隆秀児玉就忠児玉就方児玉就英出羽元祐南方就定口羽通良国司元武国司元相坂広秀安国寺恵瓊宍戸元秀宍戸隆家市川局市川経好平賀元相平賀広相志道広良桂元澄桂広繁河屋隆秀清水宗治清水宗知熊谷信直熊谷元直熊谷高直益田元祥福原広俊福原貞俊粟屋元秀粟屋元親長屋吉正難波宗徳
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