鵜飼孫六 | 甲賀の忍びと伝わる人物

うかい まごろく

地域東海
所属勢力・属性甲賀衆・徳川系
大名家甲賀衆
家紋―
主武器忍び刀・縄梯子
衣装・甲冑軽捷具足
武将タイプ甲賀の忍び(家伝)

甲賀の忍びと伝わる人物。家伝では、永禄5年に家康方が鵜殿長照の上ノ郷城を落とした際、夜襲に加わったとされる。

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甲賀の忍びとして伝わる人物

鵜飼孫六は、近江国甲賀の忍びとして伝わる人物である。生没年を1502年から1582年とする説明もあるが、確かな根拠は確認できなかった。

孫六の名が結びつけられているのは、永禄5年(1562年)の上ノ郷城攻めである。この話は鵜飼家に伝わる系図にもとづくもので、同時代の記録で確かめることは難しい。

上ノ郷城攻めと甲賀の忍び

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、松平元康(のちの徳川家康)は今川氏から離れた。三河の上ノ郷城(蒲郡市)の城主鵜殿長照は、今川義元の妹を妻とする今川方の有力者だった。

蒲郡市博物館によると、永禄5年2月4日、夜陰に乗じて元康配下の忍者が城内に忍び込んで火をつけ、城中が混乱したところを落としたと伝えられる。長照は討死し、二人の子は生け捕りにされた。日本人名大辞典は、長照は家康の家臣・松平清善に攻められて討死したとする。

鵜飼家の系図には、孫六がこの鵜殿攻めに深く関わり、夜襲に加わったことが記されているという。孫六が200人ほどの甲賀衆を率いたとする説明もある。

「伊賀越え」との関係

天正10年(1582年)の本能寺の変ののち、堺にいた家康は甲賀・伊賀を通って三河へ戻った。いわゆる神君伊賀越えである。甲賀市観光協会によると、家康は甲賀市信楽町の小川城に泊まり、三重県の徳永寺へ向かったとされ、道筋にはさまざまな説がある。

ただし、孫六がこの伊賀越えで家康を先導したことを示す資料は、今回の調査では確認できなかった。

ゆかりの地

  • 上ノ郷城跡(愛知県蒲郡市):永禄5年に家康方の忍びの夜襲で落ちたと伝わる鵜殿氏の城。赤日子神社の西北の丘にある

参考にした資料

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