隈部親永 | 肥後国衆一揆の中心となった菊池氏の旧臣

隈部親永のイラスト(イメージ)

くまべ ちかなが

地域九州(肥後)
所属勢力・属性菊池氏→大友氏・龍造寺氏→豊臣氏
大名家隈部氏
家紋―
主武器刀
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ国衆(在地領主)

隈部親永は、肥後北部の山鹿・菊池地方を治めた国衆である。豊臣秀吉の九州平定のあと、新しい領主佐々成政の検地に反対し、肥後国衆一揆の中心となった。城村城に半年近く立てこもったが降伏し、天正16年(1588)に命を絶たれた。

目次

菊池氏の家臣から山鹿・菊池の領主へ

隈部氏は、肥後の名門菊池氏の有力な家臣であった。親永は隈部親家の子で、生年はわかっていない。隈部氏は永野(今の山鹿市菊鹿町)の猿返城を本拠とし、その近くに館を構えた。

菊池氏がおとろえると、隈部氏は豊後の大友氏や肥前の龍造寺氏の配下に入った。永禄2年(1559)、親永は猿返城から出陣し、合勢川の戦いで菊池氏の旧臣赤星氏を破った。のちに親永は赤星氏の隈府城に移り住んだ。こうして隈部氏は、菊池氏に代わって山鹿・菊池地方を治めるようになった。

秀吉の九州平定と佐々成政の検地

天正15年(1587)、豊臣秀吉は九州を平定し、肥後を佐々成政に任せた。肥後の国衆たちは、それ以前に秀吉から本領安堵(領地をそのまま認めること)の約束を得ていた。

ところが成政は肥後に入ると、すぐに検地を行うと告げた。検地で土地を調べ直されれば、国衆は領地を失うおそれがある。親永は秀吉の安堵を理由にこれを拒み、最初に兵を挙げた。こうして肥後国衆一揆が始まった。

城村城での籠城

成政に攻められた親永は、子の親泰(親安とも)が城主を務める城村城(今の山鹿市城)に入った。城村城は、もとは菊池氏の三家老の一つ、城氏の居城である。ここに1万5000人以上が立てこもったという。

成政は城村城に備えて「東付城」「西付城」を築き、包囲した。戦いは半年近く続き、一揆は肥後全体に広がった。秀吉は九州の大名たちを送り込んで一揆を鎮めた。天正15年(1587)12月、親永は城を明け渡して降伏した。

一揆の結末と隈部氏館跡

天正16年(1588)5月、親永は切腹させられたとされる。子の親泰も筑後柳川城で殺された。一方、一揆を招いた成政も責任を問われ、切腹を命じられている。肥後はこののち加藤清正と小西行長に分け与えられた。

隈部氏が本拠とした館の跡は、山鹿市菊鹿町に残る。礎石建物や庭園の跡が見つかり、平成21年(2009)に国の史跡に指定された。近くの青潭寺の裏山には、親永をふくむ隈部一族の墓がある。菊鹿町のあんずの丘には親永の銅像も立っている。

ゆかりの地

  • 隈部氏館跡(熊本県山鹿市菊鹿町上永野):隈部氏の居館跡。国指定史跡
  • 城村城跡(熊本県山鹿市城):親永・親泰父子が立てこもった肥後国衆一揆の舞台

参考にした資料

隈部親永とは

隈部親永は、肥後の山鹿・菊池を治めた隈部氏の当主です。

肥後国衆一揆の始まり

天正15年(1587年)、佐々成政の検地に反発した親永が兵を挙げたことが、肥後国衆一揆の始まりとされます。

城村城の籠城

親永は、子の親泰とともに城村城に籠もり、豊臣方の大軍と戦いました。

評価

親永は、肥後国衆一揆の中心となった国衆の当主です。その抵抗は、成政の失脚と肥後の支配の大きな変化につながりました。

このイラストについて

このイラストは、山城を背に、腕を組んで立つ年配の親永を描いています。

白髪の顔と腕を組んだ姿で、一揆の中心となった国衆の当主の覚悟を表しました。

霧の立つ山々と城は、隈部氏が籠もった肥後の山城をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

肥後国人衆

肥後では守護の菊池氏が衰えた後、阿蘇氏や、隈部・城・赤星・甲斐などの国衆がそれぞれの地域を治めていた。彼らは大友・龍造寺・島津という周りの大勢力のあいだで、従う相手を変えながら生き残りをはかった。

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