つのくま せきそう
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大友家臣 |
| 大名家 | 大友 |
| 家紋 | 丸に抱き杏葉 |
| 主武器 | 陣太刀・占術書 |
| 衣装・甲冑 | 軍師衣装 |
| 武将タイプ | 軍略・易学 |
大友宗麟の兵法師範。耳川への出陣に凶兆を見て反対するも容れられず、覚悟を決めて戦死した大軍略家。
目次
大友宗麟の兵法師範・角隈石宗
角隈石宗(つのくま せきそう)は、豊後の名門・大友氏の当主・大友宗麟に仕えた兵法師範です。軍配者(ぐんばいしゃ)として、天文・占術・兵法に通じ、合戦の吉凶を占って主君に助言する立場にありました。
軍配者の役割
戦国の合戦では、出陣の日取りや布陣の吉凶を占い、軍の行動に助言を与える軍配者・兵法師範が重んじられました。角隈石宗は、こうした知識と占術をもって、大友軍の作戦に関わる重要な役割を担っていました。
耳川への出陣に反対
天正6年(1578年)、大友宗麟が日向へ大軍を進め、島津氏と決戦しようとした際、角隈石宗は凶兆を見て、この出陣に強く反対したと伝えられます。しかし、その進言は容れられず、大友軍は日向へと向かいました。
耳川に散る
はたして大友軍は、耳川の戦いで島津軍の巧みな戦術の前に歴史的な大敗を喫します。角隈石宗は、自らの凶兆の予言どおりの敗戦のなか、覚悟を決めて戦死したと伝えられます。角隈石宗の生涯は、主君に凶兆を諫めながら、容れられずに主家の敗戦に殉じた、兵法師範の悲劇を今に伝えています。





















