ふじた ゆきまさ
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 明智家臣 |
| 大名家 | 明智 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・武骨 |
藤田行政は明智光秀の重臣で、通称は伝五。『多聞院日記』など同時代の史料に名が見える。本能寺の変の後は大和の筒井順慶を味方に引き入れる交渉にあたり、山崎の戦いで深手を負い戦場から退いた後に自害したと伝わる。
史料に見える藤田伝五
藤田行政は明智光秀の家臣である。同時代の記録では「藤田伝五」の名で現れる。実名を行政とするのは後世の伝えによる。生年や出身は分かっていない。光秀の父の代から明智家に仕えたとする説もあるが、確かな根拠はない。
奈良の興福寺多聞院の僧が書いた『多聞院日記』には、天正5年(1577年)に伝五が使者として奈良に来たことが記されている。光秀のもとで大和方面の交渉にあたっていたことがうかがえる。
光秀のもとでは畿内各地の戦いに従い、山城国の静原山城を預かったとする記述もある。光秀の重臣には明智秀満や斎藤利三がいるが、伝五もそれに次ぐ立場にあったとみられる。
本能寺の変と筒井順慶への説得
『信長公記』によると、天正10年(1582年)6月、光秀は信長を討つ決意を少数の重臣に打ち明けた。伝五はその中の一人である。
変の後、伝五は大和郡山の筒井順慶のもとへ赴き、明智方に味方するよう求めた。『多聞院日記』にもこの交渉の様子が記されている。しかし順慶は最終的に明智方に加わらなかった。
順慶は光秀と縁の深い大和の大名で、光秀は強く味方を期待していた。伝五は一度郡山から戻った後、再び順慶のもとへ遣わされたことが『多聞院日記』6月10日条からうかがえる。順慶が動かなかったことは、兵を集めきれなかった光秀にとって大きな痛手となった。
山崎の戦いと最期
同年6月13日の山崎の戦いで、明智軍は羽柴秀吉の軍に敗れた。軍記物の『太閤記』によれば、伝五は奮戦して深手を負い、淀方面へ退いた。その後、光秀の敗死を知って自害したと伝わる。最期の様子は軍記物によるもので、細部は確かめられない。
なお「明智五宿老」という呼び方は後世のもので、同時代の史料にある呼称ではない。
山崎の戦いの明智軍は約1万6千、羽柴軍は約2万6千とされる。戦いは1日で決着し、光秀は勝龍寺城に退いた後、坂本へ逃れる途中の小栗栖で落命した。伝五の最期もこの敗走の混乱の中にあった。
ゆかりの地
- 勝龍寺城跡(京都府長岡京市):山崎の戦いで光秀が本陣を置き、敗戦後に退いた城
参考にした資料
藤田行政とは
藤田行政は、明智光秀に仕えた重臣で、藤田伝五の名でも知られます。
光秀の重臣たち
光秀の重臣には、斎藤利三・明智秀満・溝尾茂朝などがいました。行政も、その一人として光秀を支えました。
筒井順慶への使者
本能寺の変ののち、行政は大和の筒井順慶のもとに使者として向かい、味方になるよう説得したとされます。
山崎の戦い
天正10年(1582年)、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れました。行政も、この戦いで命を落としたと伝えられます。
評価
行政は、光秀の重臣として本能寺の変ののちの交渉にあたり、山崎の戦いで散った武将です。
このイラストについて
このイラストは、城と陣を背に、槍を手に立つ行政を描いています。
鉢巻と黒い甲冑で、光秀を支えて戦った重臣の覚悟を表しました。
暗い空の下の城と陣は、本能寺の変ののちの緊迫した情勢をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
美濃の土岐氏の一族とされる明智氏の出身、明智光秀を中心とする家。光秀の前半生には不明な点が多いが、足利義昭と織田信長の間を取り持つ形で頭角を現し、信長の家臣として近江坂本城を与えられた。
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