ほんだ ただかつ
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | 丸に立ち葵 |
| 主武器 | 蜻蛉切(大槍)・鹿角脇立兜 |
| 衣装・甲冑 | 黒漆塗具足 |
| 武将タイプ | 「家康に過ぎたるもの」・無傷 |
本多忠勝は三河国の徳川家譜代の家臣・本多忠高の子として生まれた。幼少より徳川家康に仕え、13歳で初陣を飾ると、以後生涯で50数度に及ぶ合戦に参加しながら一度も傷を負わなかったと伝えられる、まさに武神の加護を受けたかのような戦歴を誇る猛将である。
三方ヶ原の戦いでは、武田信玄の大軍を前に撤退する家康の殿軍を務め、わずかな手勢で追撃する武田軍を食い止めるという壮絶な働きを見せた。この時の勇猛さは敵将・武田軍からも「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と狂歌に詠まれるほど広く知れ渡った。
愛槍「蜻蛉切」は、穂先に止まった蜻蛉が両断されたという逸話からその名がついたとされ、忠勝の圧倒的な武勇を象徴する名槍として知られる。小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉率いる大軍を前にわずか500の兵で立ちはだかり、その豪胆さに秀吉自身が賞賛の意を示したとも伝えられる。
徳川四天王の一人として榊原康政・井伊直政・酒井忠次と並び称され、家康の天下取りを支え続けた。関ヶ原の戦いでは軍監として本戦に参陣し、東軍勝利に大きく貢献。戦後は伊勢桑名10万石を与えられ、大名としての地位を確立した。
武功だけでなく統治者としても手腕を発揮し、桑名城下の整備や治水事業にも尽力した。生涯無傷を貫いた武勇と、家康への揺るぎない忠義から「三河武士の鑑」と称えられ、1610年に63歳で没するまで、徳川家臣団を代表する最強の武将として広く畏敬を集め続けた。

