もり こへえ
| 地域 | 近畿・九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 黒田家臣 |
| 大名家 | 黒田 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 武骨具足 |
| 武将タイプ | 老練・武功 |
母里小兵衛は播磨の武士で、黒田官兵衛の父・職隆と行動をともにした母里一族の人物である。『黒田家譜』によれば、永禄12年(1569年)の土器山の戦いで、子の武兵衛ら一族24人とともに戦死した。母里太兵衛(友信)の実父ではない。
母里氏と黒田家
母里氏は播磨の国人で、今の兵庫県稲美町母里を本貫(一族発祥の地)とするとされる。出自は尼子氏につながるという伝えがあるが、確かな史料による裏付けは乏しい。
小兵衛は黒田官兵衛(孝高)の父・職隆と同陣した武士として、江戸時代に福岡藩でまとめられた『黒田家譜』『黒田家臣伝』に登場する。当時の黒田家は、御着城主・小寺政職の家臣として姫路城を預かる立場にあった。
土器山の戦いでの戦死
永禄12年(1569年)、龍野城主の赤松政秀が姫路へ兵を進めた。黒田家は少ない兵でこれを迎え撃った。これが青山・土器山の戦いである。
『黒田家譜』によれば、この戦いで小兵衛は子の武兵衛ら母里一族24人とともに戦死した。一族の多くを一度に失ったことで、母里家は存続の危機に立たされた。
戦死後の母里家
同じく家伝では、小兵衛は出陣前に死を覚悟し、妻と幼い子の世話を職隆に頼んだとされる。職隆はこの妻を迎え、その間に黒田直之らが生まれたと伝わる。
母里家が絶えることを惜しんだ官兵衛は、家臣の曽我一信と母里氏の女性との間に生まれた子に母里姓を名乗らせた。これが「黒田節」で知られる母里太兵衛(友信)である。太兵衛は小兵衛の実子ではない。
ゆかりの地
- 土器山(兵庫県姫路市):青山・土器山の戦いの戦場とされる地
- 母里(兵庫県稲美町):母里氏の本貫とされる地
播磨の母里一族
小兵衛は、播磨の武士で、母里一族の人物です。
母里家
母里家は播磨の国衆で、現在の兵庫県稲美町母里を発祥の地とするとされます。尼子家につながる家という言い伝えもありますが、確かな史料による裏付けは乏しいとされます。
黒田職隆と同陣
小兵衛は、黒田官兵衛の父・黒田職隆と行動をともにした武士でした。
黒田家譜
小兵衛の事績は、江戸時代に福岡藩でまとめられた『黒田家譜』などに記されています。
小寺家のもとで
このころの黒田家は、播磨の小寺家の家老として姫路城を預かっていました。
土器山の戦い
1569年、黒田家は播磨の土器山で、赤松家の軍と戦いました。
激戦
この戦いは激戦となり、黒田方は大きな被害を受けました。
一族24人とともに
『黒田家譜』によれば、小兵衛は、子の武兵衛ら一族24人とともに、この戦いで戦死したとされます。
母里家の断絶の危機
一族の多くを失った母里家は、存続の危機に立たされました。
母里太兵衛
その後、官兵衛は家臣の曽我家の子に母里家を継がせました。これが、のちに「黒田節」で知られる母里太兵衛(友信)です。小兵衛は、太兵衛の実父ではありません。
黒田二十四騎
母里太兵衛は、黒田家の精鋭「黒田二十四騎」の一人として、大きな武功を上げました。
母里の名を残す
小兵衛ら一族が命を落とした後も、母里の家名は太兵衛によって受け継がれ、黒田家の歴史に名を残しました。
青山・土器山の戦い
土器山の戦いは、青山の戦いとあわせて、黒田家が赤松家の攻撃を退けた戦いとして知られます。
伝承と史料
小兵衛の事績は、主に黒田家の記録によって伝えられており、細かな点ははっきりしない部分もあります。
黒田節
「酒は飲め飲め」で知られる民謡「黒田節」は、母里太兵衛が福島正則から名槍「日本号」を飲み取った逸話をもとにしています。
赤松家との戦い
このころの播磨では、龍野の赤松家と、御着の小寺家などの勢力が争っていました。
小兵衛の評価
小兵衛は、黒田職隆とともに戦い、土器山の戦いで一族とともに命を落としたと伝えられる母里家の武士です。その犠牲の後、母里の家名は太兵衛によって受け継がれました。
このイラストについて
白いひげの老将が槍を構え、柵と物見櫓のある陣を背にした姿です。
槍を構えた老将の姿は、黒田職隆とともに戦い、土器山の戦いで一族とともに命を落としたと伝えられる小兵衛をイメージしています。背景の柵と物見櫓は、激戦となった播磨の戦場を思わせるものです。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
播磨の小寺氏に仕えた家。黒田孝高(官兵衛)は早くから織田信長に味方し、羽柴秀吉の中国攻めでは軍師として働いた。荒木村重の謀反の際には説得に向かって有岡城に幽閉されたことでも知られる。九州平定の後、豊前中津12万石を与えられた。
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