きい ともふさ
| 地域 | 九州(豊前) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊前宇都宮氏(城井氏) |
| 大名家 | 城井家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍・弓 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 悲運の嫡男 |
城井朝房は、豊前国城井谷(福岡県築上町)を本拠とした城井鎮房の嫡男である。豊臣秀吉の九州平定に父の名代として従ったが、その後、黒田氏との対立に巻きこまれた。父が中津城で謀殺されたころ、朝房も肥後で討たれ、約400年続いた豊前宇都宮氏は滅んだ。
豊前宇都宮氏という家
城井氏は、正しくは豊前宇都宮氏という。下野(栃木県)の宇都宮氏の一族で、鎌倉時代に豊前へ入ったのが始まりである。初代の信房は、京都の泉涌寺の建立にも土地を寄進したと伝わる。
一族は城井谷を本拠とし、室町時代には5代頼房が菩提寺の天徳寺を開いた。戦国時代の当主・鎮房は城井谷の領主として力を持ち、朝房はその嫡男として生まれた。生年は元亀2年(1571)とする説がある。母は大友義鑑の娘ともいわれる。
九州平定と黒田氏との争い
天正14年(1586)、秀吉の九州平定軍が進むと、父の鎮房ははじめ様子を見て動かなかった。翌天正15年、鎮房は朝房を送って秀吉に従わせた。朝房はこのとき、秋月氏の岩石城攻めで手柄を立てたとも伝わる。
平定後、城井氏には四国への国替えが命じられ、豊前には黒田孝高(官兵衛)が入った。同年10月、肥後で国人一揆が起こると、そのすきに城井一族は城井谷を取りもどした。黒田長政は城井谷を攻めたが敗れ、秀吉も毛利氏などに出陣を求めた。城井氏はしだいに追いつめられていった。
父の謀殺と朝房の最期
やがて両者は和睦したが、天正16年(1588)4月、鎮房は中津城で黒田長政に謀殺された。同じころ、朝房も黒田孝高に従って肥後に出ていたところを討たれたとされる。宿所を囲まれ、従者とともに自害したとも伝わる。朝房の死を天正17年とする説もある。
こうして鎌倉時代から約400年続いた豊前宇都宮氏は、ここで滅亡した。
その後の宇都宮家
朝房の妻は身ごもったまま逃れ、男子を産んだと伝わる。この子はのちに宇都宮朝末と名のり、家の再興に力をつくしたという。
鎮房の謀殺から66年後の承応3年(1654)以降、宇都宮氏の復興運動が起こった。宇都宮春房らは旧家臣に『宇都宮家譜』を配り、家の血筋を伝えた。築上町の天徳寺には、鎮房・朝房の墓が今も残っている。
ゆかりの地
- 天徳寺(福岡県築上郡築上町本庄):宇都宮氏の菩提寺。境内に長甫・鎮房・朝房の墓がある
- 城井谷(福岡県築上郡築上町):宇都宮氏の本拠地。城井ノ上城跡や館跡などが残る
参考にした資料
城井朝房とは
城井朝房は、豊前の宇都宮氏(城井氏)の当主・城井鎮房の子です。
城井谷
城井氏の本拠の城井谷は、豊前の山あいにある険しい谷で、攻めにくい地形でした。
黒田家との争い
秀吉の九州平定ののち、豊前には黒田孝高が入りました。城井氏はこれに反発し、黒田家と争いました。
父の謀殺
天正16年(1588年)、父の鎮房は黒田長政に招かれた中津城で討たれたと伝えられます。
評価
朝房は、豊前の名門・城井氏の跡継ぎとして、黒田家との争いの中で家とともに命運を絶たれた人物です。
このイラストについて
このイラストは、山あいの陣に、槍を手に立つ朝房を描いています。
大きな前立ての兜と若々しい顔で、名門の跡継ぎとしての誇りを表しました。
霧の立つ山々は、城井氏の本拠だった豊前の城井谷をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
























