ありま よしさだ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 肥前有馬家当主・キリシタン |
| 大名家 | 有馬家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 南蛮風の小物を添えた具足 |
| 武将タイプ | 外交・貿易型 |
有馬義貞は、戦国時代に肥前の島原半島を治めた大名である。南蛮貿易に力を入れて口之津の港を開き、宣教師の布教を認めた。自らも洗礼を受け、アンドレの名を持った。
島原半島の名門・有馬家
有馬家は、肥前藤津荘の荘司の子孫とみられる一族である。鎌倉時代に経澄が有馬荘の地頭職を得て、有馬を名のるようになった。本拠の日野江城は、建保年間(1213〜19)に経澄が築いたと伝わる。標高約78mの丘にあり、築かれた当時は海水が城のすぐ下まで入り込んでいた。
義貞の父・晴純の代に有馬家は大きく力をのばし、肥前の6郡を従えたとされる。義貞は大永元年(1521)に晴純の長男として生まれた。初めの名は晴直で、義直とも名のった。弟には、のちに日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠がいる。
家督相続と龍造寺氏の圧力
天文21年(1552)、義貞は父の跡を継いで日野江城主となった。しかし、このころ肥前では龍造寺氏が勢いを強めていた。有馬家の領内も龍造寺氏に攻め込まれることがあり、義貞の時代は苦しい戦いが続いた。
口之津の開港とキリスト教
義貞は南蛮貿易に積極的だった。永禄5年(1562)、領内の口之津を南蛮貿易の港として開いた。口之津は有明海へ入る船の寄港地として、海上交通の大事な場所だった。
翌永禄6年(1563)には、宣教師ルイス・デ・アルメイダが口之津で250人に洗礼を授けた。その後キリスト教は島原半島に広がり、口之津は布教の中心地となった。義貞も宣教師の布教を許し、自ら洗礼を受けた。洗礼名はアンドレである。
義貞は天正4年12月27日(1577)に56歳で亡くなった。
子孫は江戸時代も大名として続く
家督は次男の晴信が継いだ。晴信もキリシタン大名として知られ、豊臣秀吉の九州平定に従って肥前高来郡4万石を与えられた。日野江城を改築し、日本で初めてのセミナリヨを領内に置いた。
晴信の子・直純は徳川家康に仕え、日向の延岡を治めた。その後、有馬家は越後糸魚川をへて越前丸岡5万石の藩主となり、幕末まで家を保った。明治には子爵の位を授けられている。
ゆかりの地
- 日野江城跡(長崎県南島原市北有馬町):有馬家代々の居城。国の史跡
- 口之津港(長崎県南島原市口之津町):義貞が永禄5年(1562)に南蛮貿易港として開いた港
参考にした資料
有馬義貞とは
有馬義貞は、肥前の島原半島を治めた有馬家の当主です。有馬晴信の父にあたります。
口之津の港
義貞は、口之津の港にポルトガル船を迎えました。口之津は、南蛮貿易の港の一つとして栄えました。
キリスト教の受容
義貞は、晩年にキリスト教の洗礼を受けたと伝えられます。洗礼名はアンドレでした。
龍造寺家の圧力
義貞の時代、有馬家は肥前の龍造寺家の圧力を受け、勢力を弱めていきました。
評価
義貞は、南蛮貿易とキリスト教を受け入れ、島原半島の有馬家を率いた当主です。その流れは、子の晴信へと受け継がれました。
このイラストについて
このイラストは、港と城を背に座る義貞を描いています。
胸の十字架と落ち着いた表情で、キリスト教を受け入れた当主の姿を表しました。
海辺の城と港は、有馬家が治めた島原半島と口之津の港をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
肥前の島原半島を本拠とした家。有馬義貞・晴信はキリシタン大名として知られ、晴信は天正遣欧少年使節を送り出した大名の一人でもある。
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