だて しげざね
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 伊達一門・重臣 |
| 大名家 | 伊達氏 |
| 家紋 | 竹に雀 |
| 主武器 | 大槍・太刀 |
| 衣装・甲冑 | 毛虫前立の黒漆具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・不退転 |
伊達成実とは
伊達成実は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた伊達家の武将であり、奥州の覇者と呼ばれた伊達政宗を最前線で支え、知略の片倉景綱と並んで武勇の面から政宗の右腕と称された人物として広く知られている。
その戦いぶりは苛烈をきわめ、味方が総崩れとなる窮地にあっても一歩も退かず、人取橋の戦いや摺上原の戦いといった伊達家の命運を分けた合戦で、たびたび戦いの流れをみずから引き寄せる働きを見せたと伝わる。
兜の前立に毛虫をあしらったことでも名高く、決して後退しないとされる毛虫の習性になぞらえ、背を見せぬ武将の象徴として、その姿は後世まで語り継がれてきた。
一時は政宗のもとを離れて出奔し、会津の蒲生氏郷をはじめ諸大名から誘いを受けたとも伝わるが、のちに帰参して亘理の地を与えられ、仙台藩の重臣として長寿を全うした波乱に富む生涯を送った人物である。
出自と伊達一族としての立場
伊達成実は永禄11年(1568年)、伊達家の一門である伊達実元の嫡男として生まれ、やがて信夫郡の大森城を拠点とする有力な家柄を継ぐべき立場にあったと伝わる、生粋の伊達一族の御曹司であった。
伊達家は奥州において代々勢力を張ってきた名門であり、その一門衆は主家を軍事の面から支える太い柱であって、なかでも成実の家は武をもって伊達家に仕える家系として、とりわけ重んじられていたとされる。
父実元は当主に次ぐ実力者として一目置かれた存在であり、成実もまた幼少の頃から武人としての厳しい教育を受けて育ち、伊達一族の中核を担うべき将として周囲から大きな期待を寄せられていたと伝わる。
父実元と上杉養子問題の余波
成実の父実元は、若い頃に越後の上杉家へ養子として送り込まれる話が持ち上がった人物であり、この縁組をめぐる家中の対立が、伊達家を真っ二つに割る大きな内乱の引き金になったと伝わる。
天文の乱と呼ばれるこの内訌では、当主の稙宗とその嫡男晴宗が正面から争い、実元の去就もまた渦中に置かれたが、結局のところ上杉家への養子入りは実現せず、実元は伊達家にとどまることとなった。
こうした父の数奇な経歴は、成実が生まれる前の伊達家中に渦巻いていた緊張をよく物語っており、一門の身でありながら政治の荒波に翻弄される立場を、成実自身もまた後年に身をもって味わうこととなる。
政宗との血縁と深い結びつき
成実と政宗は伊達の血を色濃く分け合う近しい間柄であり、系図の上ではいとこにあたる関係とされ、年齢も比較的近かったことから、幼い頃より血と縁で固く結ばれていたと考えられている。
政宗が家督を継いで奥州の統一へと乗り出すと、成実は一門衆の筆頭格としてその陣営に加わり、主君でありながら同時に血族でもある政宗を、もっぱら武の面から支えるという役割を担った。
血縁の近さは厚い信頼へとつながる一方で、後には立場をめぐる微妙な緊張を生む火種ともなり、両者の関係は生涯を通じて、単純な主従の言葉だけでは割り切れない複雑な色合いを帯びていたと伝わる。
武勇の将としての台頭
政宗が家督を継いだ天正の年間、伊達家は周辺の諸勢力と絶え間ない戦を繰り広げており、成実はその最前線にあって若くして頭角を現し、群を抜く武勇の将としてしだいに名を高めていった。
二本松の畠山氏との抗争をはじめとして、伊達家が版図を押し広げていく過程の数々の合戦で、成実は先鋒や殿という危険きわまりない役どころを、みずから果敢に引き受けていったと伝わる。
その目覚ましい働きぶりは早くから政宗の厚い信任を得るところとなり、いまだ二十歳前後という若さでありながら、成実は一軍を率いて戦う将としての確かな地位を築き上げていったとされる。
人取橋の戦い
天正13年(1585年)、政宗は父輝宗の非業の死をめぐる因縁から周辺大名の連合軍と激突し、佐竹や蘆名らの大軍にぐるりと囲まれて伊達勢が崩れかけるという、開戦以来最大の危機を迎えることとなった。
人取橋の戦いと呼ばれるこの合戦で、成実は総崩れとなりかけた味方の中にあって毅然と踏みとどまり、退いたところで敗れることに変わりはないと覚悟を定め、寡兵をもって敵の猛追を食い止めたと伝わる。
この命がけの奮戦によって政宗はかろうじて戦場を離脱して生き延びることができ、成実の武勇は伊達家中に一気に知れ渡り、後には多くの加増をもってその働きに報いられたとされる。
圧倒的な劣勢のなかで身を挺して主君を守り抜いたこの一戦は、退かぬ武将としての成実の名を決定づける出来事となり、彼の生涯を象徴する合戦のひとつに数え上げられている。
摺上原の戦い
天正17年(1589年)、政宗は会津の蘆名義広と雌雄を決すべく摺上原で対峙し、この一戦は南奥州の覇権のゆくえを大きく左右する、まさに天下分け目ともいうべき決戦となった。
合戦の序盤は風向きなども災いして伊達勢が劣勢に立たされたが、成実は突出してきた敵の側面を鋭く突く強襲を果敢に仕掛け、傾きかけた戦況を一気に押し返す目覚ましい働きを見せたと伝わる。
この勝利によって政宗は名門の蘆名氏を滅ぼして念願の会津を手中に収め、南奥州にまたがる広大な版図を一気に築き上げたのであり、その飛躍を陰で支えた立役者のひとりがまさに成実であった。
版図拡大への貢献と二本松の領有
摺上原での大勝の後、成実はその抜群の功績によって安達郡の二本松を任され、伊達家が新たに手にした南方の要地を治めるという、きわめて重い責務を担うことになったと伝わる。
二本松はかつて激しい争奪の舞台となった因縁の土地であり、その要衝を預けられたことは、成実が単なる猛将にとどまらず、境目の地を治める確かな器量をも認められていた何よりの証であった。
こうして成実は、戦場における鮮やかな武功と、切り取った占領地の統治という双方において伊達家の版図拡大を支え、政宗による南奥州席巻の一翼を、確かにその双肩で担い続けたのである。
毛虫の兜と退かぬ将の象徴
成実を語るうえで決して欠かせないのが、兜の前立に毛虫をかたどった意匠を用いたことであり、これは決して後ろに退かないとされる毛虫の習性に、みずからの覚悟をあやかったものだと伝わる。
毛虫はひたすら前へ前へと進むばかりで後退しないとされ、その姿を戦場での不退転の決意に重ね合わせるという発想は、退くことをまるで知らぬ成実の激しい戦いぶりと、見事なまでに響き合っていた。
俗にこの前立はムカデとも語られることがあるが、北海道の伊達市や亘理に伝わる記録では毛虫とされており、いずれにせよ背を見せぬ武将の象徴として、その意匠は広く人々に知られている。
敵に決して背を見せぬというこの一貫した姿勢は成実の生き方そのものであり、毛虫の兜は彼の輝かしい武名を後世へと伝える、何よりも雄弁な象徴として、今なお語り草となり続けている。
片倉景綱と並ぶ政宗の右腕
政宗の家臣団のなかで、成実はしばしば片倉景綱と並び称され、武勇に秀でた成実と知略に長けた景綱という二人こそが、若き当主政宗の左右を固く支える両輪であったと語られている。
景綱が軍師的な立場から政宗の判断をたびたび助けたのに対し、成実はみずから槍を取って最前線に立ち、戦場での圧倒的な実力をもって主君の覇業を力強く押し進めていく役割を果たした。
血族としての成実と、外様の身から一代で身を起こした景綱という、対照的な二人が政宗を支えたこの構図は、若き当主の目覚ましい躍進を語るうえで欠かせない人物相関として、今日まで伝えられている。
政宗との不和と出奔
華々しい武功を数多く重ねた成実であったが、豊臣政権のもとで伊達家がその立場を大きく変えていくなか、やがて政宗との間に埋めがたい溝が生じ、文禄から慶長にかけての頃に出奔するという事態へと至った。
成実は伏見の地を離れて主家のもとを去り、与えられていた角田の城もほどなく伊達家に接収され、一門の重臣が主君のもとを出奔するというこの異例の出来事は、家中に少なからぬ衝撃を与えたと伝わる。
誇り高く、ただ武ひとすじに生きてきた成実にとって、主家を去るというこの決断は決して容易なものではなかったはずで、その背景には主君との間に長く積もり続けた複雑な感情があったと推し量られている。
出奔の背景をめぐる諸説
成実が出奔した本当の理由については確かなことが分かっておらず、恩賞や処遇への不満、豊臣政権下における伊達家の立場の変化、あるいは妻の死といった、さまざまな説が入り混じって語り伝えられている。
一説には、天下の情勢が大きく揺れ動くなかで一門としての自らの立場に思うところがあったとも、また武人としての強い誇りが主家との軋轢を生んだともいわれるが、そのいずれもが推測の域を出るものではない。
出奔にまつわる数々の逸話には後世の脚色も少なからず混じっているとみられ、真相は今なお判然としないままだが、この謎めいた空白の期間が成実の生涯に独特の陰影を与えていることは、まず間違いないといえる。
蒲生氏郷や諸大名からの誘い
主家を離れて浪々の身となった成実の武名は、たちまち諸大名の耳にも届いており、当時会津に入っていた蒲生氏郷が、その並外れた武勇を惜しんでみずからの手元に召し抱えようとしたとも伝わる。
さらに関ヶ原をめぐる争乱の頃には、上杉景勝が禄高五万石という破格の条件をもって仕官を強く勧めたとも、また徳川方からもひそかに誘いの手が伸びていたとも、さまざまに語り継がれている。
しかし成実は、これら好条件の誘いにも容易には応じようとせず、どの他家にも確たる根を下ろすことのないまま、なお伊達の一門としての揺るぎない矜持を胸に保ち続けていたと伝わる。
政宗のもとへの帰参
数年に及ぶ出奔の末、成実は慶長5年(1600年)の関ヶ原をめぐる大きな動乱の頃に政宗のもとへと帰参し、再び伊達家の一員としての立場を取り戻すこととなり、離れていた主従の縁はここに結び直された。
一度は袂を分かった主従が再び手を取り合った背景には、めまぐるしく変わる天下の情勢とともに、切っても切れぬ血族としての深い縁と、成実の類まれな武勇を惜しむ政宗の思いがあったと考えられている。
帰参を果たした後の成実は以前にも増して重んじられ、かつての不和を乗り越えて政宗との関係もすこぶる良好であったと伝わり、この二人の結びつきがいかに強いものであったかを、あらためてうかがわせる。
亘理の領有
帰参を許された成実は、慶長7年の暮れ(1603年)に亘理城へと入り、亘理郡のうち二十三か村におよぶ所領を与えられ、伊達家南方の要衝をひとつの城とともに任される身となった。
亘理は仙台領の南の玄関口にあたるきわめて重要な土地であり、その地を一門の宿老である成実に委ねたことは、政宗が彼の器量と忠誠をあらためて高く評価していたことの、確かな証といえるものであった。
成実はこの地の統治にひとかたならぬ力を注ぎ、城下の整備や領内の経営を着実に進め、亘理を拠点とする伊達家の有力な分家、いわゆる亘理伊達家の揺るぎない礎を、みずからの手で築き上げていった。
仙台藩の重臣として
江戸時代に入って仙台藩が正式に成立すると、成実は藩の宿老として大いに重きをなし、草創期の政宗を支えた最古参の武将のひとりとして、藩政のさまざまな場面で欠くことのできない重い役割を担った。
大坂の陣には伊達勢の一員として老いの身をおして参陣したほか、最上氏が改易された際にはその居城のひとつの接収にあたるなど、年齢を重ねてなお、武人としての務めを立派に果たし続けたと伝わる。
政宗が世を去った後も、成実は二代藩主となった忠宗を家中の長老として補佐し続け、伊達家の草創期をその目で見てきた生き証人として、若い藩主と家臣団の双方から深い敬意を寄せられていたのである。
記録者としての一面
成実には勇猛な武将としての顔だけでなく、伊達家の歩みをみずからの筆で書き残した記録者としての一面もあり、晩年には主君政宗の数々の事績を伝える覚書を、自身の手で書き記したとされている。
この記録は政宗記や伊達日記などとして今日に知られ、合戦のまさに当事者であった者が直接書き留めた貴重な内容を含んでおり、戦国期の伊達家のありさまを知るうえで、重要な手がかりとされている。
ただし後世に至って多くの異本が生み出され、原型に相当の脚色が加えられた部分もあるとみられるため、その取り扱いには慎重さが求められるものの、成実自身の見聞が土台にあること自体は疑いようがない。
亘理伊達家のその後
成実は実の子には恵まれなかったと伝わり、そこで政宗の血を引く子を養子として迎え入れ、亘理伊達家の家督を継がせることで、一門としての大切な家名を後の世へと確かにつないでいった。
亘理伊達家はその後も仙台藩の有力な分家として脈々と続き、幕末から明治にかけての激動の時代を迎えると、家臣団を引き連れて遠く北の大地へと移り住むという、大きな決断を選び取ることとなった。
彼らが新たに開拓の鍬を入れたその土地は、今日の北海道の伊達市へとつながっており、成実が礎を築いた家は、幾多の時代を越えて、遠く蝦夷地の開拓の歴史にまでその名をしかと刻むこととなったのである。
小手森城の戦いと初期の武功
天正13年(1585年)、政宗が塩松の大内定綱を攻めた一連の戦いにおいて、成実は若き身ながら各地を転戦し、早くもその武名を高めていったと伝わる。とりわけ小手森城の攻防では、伊達勢が城兵をことごとく討ち取る苛烈な攻めを見せ、成実もこの戦いに加わって奮戦したと語られている。こうした初期の合戦での働きが、成実を政宗の信頼あつい一門の将へと押し上げていく確かな土台となったのである。
大坂の陣と晩年の奉公
老境に入ってのちも成実の武人としての気概は衰えず、慶長の大坂の陣には伊達勢の一員として参陣し、白髪の身をおして戦場に立ったと伝わる。すでに家中の最長老というべき存在でありながら、なお主家の戦にみずから加わろうとするその姿は、生涯を武に捧げた成実らしい生き方を、あらためて示すものであった。戦乱の世が遠ざかった後も、成実は仙台藩の重石として若い藩主を支え続け、泰平の世へと移りゆく伊達家を、草創期を知る宿老として静かに見守っていったのである。
人物像と後世の評価
後世の記録は成実を、英毅にして大略ありと評し、一時は勇武無双とまで称されたと伝えており、抜きん出た武勇と、地を治める確かな器量とを兼ね備えた、稀有な将として長く記憶されてきた。
若い頃には右手にひどい大火傷を負って指が思うように動かなくなったとも伝わるが、それでもなお戦場に立ち続けたその不屈の姿は、退かぬ武将というみずからの異名に、いかにもふさわしいものであった。
主家との不和や出奔という大きな波乱を経ながらも、最後は伊達家の宿老として七十九年という長い生涯を全うした成実は、卓越した武勇と揺るぎない忠節、そして深い人間味を併せ持つ武将として、今も語り継がれている。
主君でありまた血族でもあった政宗との、厚い信頼と微妙な緊張とが入り混じった生涯にわたる関係は、戦国という時代を生きた武将の生き様の複雑さと奥深さを、私たちに静かに物語りかけてくるのである。

