かながみ もりはる
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 蘆名氏家臣・四天宿老 |
| 大名家 | 蘆名氏 |
| 家紋 | 丸に三つ引 |
| 主武器 | 槍・刀 |
| 衣装・甲冑 | 重厚な具足 |
| 武将タイプ | 知勇の宿老 |
金上盛備とは
金上盛備とは、会津の名門蘆名氏に仕えた重臣で、「蘆名四天の宿老」の一人に数えられ、優れた外交手腕によって「蘆名の執権」とまで称された戦国武将である。主家の命運を最後まで背負った人物であった。大永7年(1527年)、金上盛信の子として生まれた。金上氏は相模の名族三浦氏の一族である佐原氏の流れをくむとされ、越後との境に近い津川城を代々の拠点とする、蘆名家中でも有力な一門であった。盛備は蘆名盛氏・盛隆の二代にわたって重く用いられ、家中の政務を取り仕切る中心人物となった。武勇のみならず交渉の才に長け、諸大名との折衝を一手に担う外交の要として大きな存在感を放った。天正9年(1581年)には主家を代表して上洛し、従五位下遠江守に叙されたと伝わる。中央の実力者織田信長に拝謁し、主君盛隆を三浦介と認めさせるなど、蘆名氏の権威を高める働きを見せたとされる。
当時の蘆名氏は、北から勢力を伸ばす伊達氏、南に接する佐竹氏という二大勢力に挟まれ、難しい舵取りを迫られていた。盛備はこの緊張の中で、主家の存続をかけた外交をひとり担い続けたのである。だが蘆名家は当主に恵まれなかった。盛隆が家臣に殺され、幼い当主亀王丸も早世すると、跡継ぎをめぐって家中は激しく揺れ、譜代の家臣と新参の勢力が対立する、危うい情勢へと陥っていった。天正14年(1586年)の家督問題で、盛備は佐竹氏から結城義広を新たな当主に迎える案を強く推し進めた。しかしこの選択は伊達派との溝を深め、結果として蘆名家中の分裂と弱体化を招いたとされる。この家中の乱れに乗じたのが、若き伊達政宗であった。奥州の覇権を狙う政宗は蘆名領へと兵を進め、両家の対立はついに天正17年(1589年)、雌雄を決する摺上原の戦いへと突き進んでいった。
摺上原の合戦で、すでに老境にあった盛備は一族の将として蘆名軍の中核を担った。しかし内応や布陣の乱れもあって戦局は次第に伊達方へと傾き、蘆名軍は総崩れの危機へと追い込まれていった。敗色濃厚の中、盛備は退くことをせず、伊達の名将片倉景綱の隊へ敢然と突撃したと伝わる。そして天正17年6月5日、63年の生涯を戦場に散らし、主家への忠義を最後まで貫き通したのである。摺上原の敗北により、会津の名門蘆名氏は事実上滅亡し、その広大な旧領は伊達政宗の手に帰した。老臣盛備の死は、一つの大名家の終焉を象徴する出来事として、長く後世に語り継がれることとなった。
親族・主従・ライバル ― 人物相関
盛備が仕えたのは、蘆名氏の全盛を築いた名君蘆名盛氏であった。盛氏の信任を得た盛備は家中の重きをなし、続く盛隆の代にも重用されて、二代にわたり主家を支える柱石として存在感を発揮し続けた。その血筋は、相模の名族三浦氏の一族である佐原氏に連なるとされる。名門の出自を誇る金上氏は、越後との境に近い津川城を拠点とし、蘆名家中でも別格の一門として扱われていたと伝えられている。
盛備の生涯に暗い影を落としたのが、南に接する伊達氏との対立であった。奥州の覇権を狙う若き伊達政宗はやがて蘆名領に牙をむき、盛備は主家の存亡をかけて、この強敵と向き合わねばならなかった。摺上原では、政宗の名参謀として名高い片倉景綱の隊と刃を交えたと伝わる。老いてなお退かぬ盛備が、伊達方の中核をなす景綱の陣へ突撃した最期は、敵味方の対比を鮮やかに浮かび上がらせている。
南の大勢力佐竹義重との関わりも見過ごせない。盛備は蘆名の跡継ぎに佐竹から結城義広を迎える案を推し進めており、佐竹氏との連携を軸に主家の存続をはかろうとした、その外交姿勢がうかがえるのである。
逸話・エピソード
天正9年の上洛では、盛備は主家を代表して都へのぼり、織田信長に拝謁したと伝わる。中央の実力者に主君盛隆を認めさせたその手腕は、辺境の大名家の名を天下に示す、外交家としての面目躍如の働きであった。しかし主家は当主に恵まれず、跡継ぎをめぐって家中は分裂した。盛備の推した結城義広の擁立は伊達派との溝を深め、皮肉にも蘆名氏を弱体化へと導いたとされ、彼の晩年に重い影を落とすこととなった。摺上原の合戦で蘆名軍が総崩れとなったとき、老将盛備は退くことをよしとしなかった。
敗色濃厚の戦場でなお踏みとどまり、伊達勢のただ中へ敢然と斬り込んでいったと伝わるその姿は、家老の意地の表れであった。天正17年6月5日、盛備は63年の生涯を戦場に散らした。その死からほどなく名門蘆名氏は滅び、彼の最期は、一つの大名家と運命をともにした忠臣の生きざまとして、長く語り継がれることとなったのである。

