岡吉正 | 雑賀衆屈指の射手(岡勝介)。大鉄砲の遠距離狙撃を得意とし、織田軍の陣地に壊滅的打撃を与えた

岡吉正

おか よしまさ

地域近畿
所属勢力・属性雑賀衆
大名家雑賀衆
家紋丸に違い鷹の羽
主武器雑賀大鉄砲
衣装・甲冑黒塗具足
武将タイプ「岡勝介」・狙撃の名手

雑賀衆屈指の射手(岡勝介)。大鉄砲の遠距離狙撃を得意とし、織田軍の陣地に壊滅的打撃を与えた。「岡勝介」・狙撃の名手と評され、周囲からの信頼も厚かったと伝わる。

目次

岡吉正とは

岡吉正は、紀伊の雑賀衆に属した鉄砲の名手として伝えられる人物で、岡勝介の名でも知られます。生没年や出自など、くわしいことははっきりしていません。

雑賀という土地

雑賀は、紀ノ川の河口の一帯、今の和歌山市のあたりの地名です。海と川に恵まれ、漁業や交易で栄えた土地でした。

雑賀衆

雑賀衆は、この地域の地侍たちの集まりで、鉄砲を多く持ち、その扱いにたけていました。各地の大名や寺社に、鉄砲の腕を買われて加勢しました。

鉄砲の伝来

鉄砲は、天文12年(1543年)ごろ種子島に伝わったとされます。紀伊では、根来寺や雑賀の人々が早くからこれを取り入れました。

大鉄砲

大鉄砲は、ふつうの鉄砲より口径が大きく、重い弾を遠くまで飛ばすことのできる鉄砲です。城攻めや、遠くの敵を狙う時に使われました。

本願寺と雑賀衆

雑賀衆の多くは浄土真宗の門徒で、石山本願寺と深く結びついていました。信長と本願寺が争うと、雑賀衆は本願寺に味方しました。

石山合戦

元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)まで、信長と本願寺の戦いは十年にわたって続きました。雑賀衆の鉄砲は、本願寺方の大きな力となりました。

天王寺の戦い

天正4年(1576年)の天王寺の戦いでは、本願寺方の鉄砲に信長自身が足を撃たれたと伝えられます。

信長の雑賀攻め

天正5年(1577年)、信長は大軍で雑賀に攻め込みました。雑賀衆は地形を生かして戦い、のちに和睦に持ち込みました。

狙撃の名手という伝え

吉正が大鉄砲で遠くの敵を狙い撃ったという話は、雑賀衆の鉄砲の腕前を伝える言い伝えとして残っています。

雑賀衆の終わり

天正13年(1585年)、秀吉の紀州攻めで雑賀衆は力を失い、地侍たちの多くは農民に戻ったり、大名に仕えたりしました。

鉄砲の生産地

鉄砲は、紀伊の根来や、和泉の堺、近江の国友などで多く作られました。

雑賀孫一

雑賀衆の鉄砲の名手としては、雑賀孫一(鈴木孫一)の名が広く知られています。

紀ノ川河口の今

雑賀衆が活動した和歌山市の一帯には、雑賀崎などの地名が今も残っています。

評価

吉正は、伝承の色の濃い人物ですが、鉄砲の名手として知られた雑賀衆の姿を伝える一人として、その名が語られています。

このイラストについて

このイラストは、柵の陰に身を低くし、大きな鉄砲を構える吉正を描いています。

太い銃身の大鉄砲と、狙いを定める鋭い目つきで、狙撃の名手と伝わる射手の集中を表しました。

遠くに見える水辺と陣は、紀ノ川の河口の雑賀の地と、本願寺方の戦場をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

雑賀衆

紀伊北部の雑賀荘を中心とした土豪たちの集団。鉄砲の扱いに優れ、他の勢力に雇われて戦う傭兵集団としても知られた。

雑賀衆の歴史と武将一覧を見る →

家臣団

土橋守重湊高秀鈴木重秀の肖像イラスト雑賀三太夫
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次