寒川光永 | 讃岐寒川氏の一族。寒川元隣の弟または子と伝わる

寒川光永の肖像

さんかわ みつつね

地域四国
所属勢力・属性讃岐寒川氏
大名家讃岐寒川氏
家紋―
主武器太刀・行政書状
衣装・甲冑重臣具足
武将タイプ国人(事績不詳)

寒川光永は戦国時代末期の讃岐寒川氏の一族。系図類では寒川元隣の弟、または元隣の子「七郎光永」として名が見える。寒川氏は昼寝城を本拠とした讃岐東部の国人で、三好氏・長宗我部氏の抗争のなかで勢力を失った。

目次

讃岐寒川氏とは

寒川氏は讃岐国東部の国人である。室町時代に長尾庄の地頭となり、大内郡・寒川郡を勢力下に置いたとされる。

本拠は昼寝城(さぬき市)である。山深い地に築かれ、四国屈指の堅城といわれた。支城として虎丸城(東かがわ市)や引田の城を持ったとされる。

戦国時代の寒川氏は、讃岐の十河氏・安富氏などと領地を争った。阿波の三好氏が讃岐へ勢力を広げると、その影響を強く受けた。

元政・元隣の時代

寒川元政の代、元亀年間に虎丸城は安富氏の手に渡った。香川県の資料は、元亀3年(1572)に三好長治の差配で元政が昼寝城へ移り、虎丸城は三好方の安富盛方の預かりになったと記す。

元政の跡は子の元隣が継いだ。天正10年(1582)8月、元隣は十河存保に属して長宗我部元親と戦い、中富川の戦いで討死したとされる。

光永について

光永の名は寒川氏の系譜を記した資料に見える。ただし続柄は一致しない。元隣が居城を移した際に昼寝城へ入れた弟を光永とする記述と、元隣の死後に家督を継いだ子を「七郎光永」とする記述がある。

光永自身の具体的な行動を示す史料は確認できない。元隣の戦死後、讃岐は長宗我部氏の侵攻を受けた。天正13年(1585)には豊臣秀吉の四国攻めで長宗我部氏が退き、讃岐は豊臣大名の支配下に入った。この間の寒川氏の動向は不明な点が多い。

ゆかりの地

  • 昼寝城跡(さぬき市):寒川氏の本拠。山間の堅城として知られる
  • 虎丸城跡(東かがわ市):寒川氏の支城。元亀年間に安富氏の手に渡った

参考にした資料

寒川氏の本拠

寒川氏は、讃岐東部の寒川郡を本拠とし、昼寝城や虎丸城を拠点としました。阿波との国境に近い土地で、三好家の動きに大きく左右されました。

寒川氏と小豆島

寒川氏は、讃岐本土だけでなく小豆島にも勢力を持ったとされます。瀬戸内海の島々を押さえることは、海の交通を押さえることにもつながりました。

長宗我部家の侵攻

天正年間、長宗我部元親は讃岐に攻め込み、東讃の国衆も次々に戦いに巻き込まれました。

中富川の戦い

天正10年(1582年)、寒川元隣は十河存保に従って中富川の戦いに出陣し、討死したとされます。この戦いののち、寒川氏は力を失いました。

評価

光永は、讃岐東部の国衆・寒川氏の一族として名が伝わる人物です。くわしい事績ははっきりしませんが、三好家と長宗我部家のはざまで揺れた寒川氏の歴史の中に、その名が残っています。

このイラストについて

このイラストは、海と島を見渡す丘の上で、巻物を手にした光永を描いています。

白髪まじりの髪と落ち着いた表情で、一族を見守る年配の武将の姿を表しました。

背後の海と島々は、寒川氏が勢力を持ったとされる讃岐の海と小豆島をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

寒川家

讃岐の東部、寒川郡を本拠とした国衆。昼寝城などを拠点とし、讃岐の守護代の安富氏や、阿波の三好氏と争った。

寒川家の歴史と武将一覧を見る →

主家

寒川元隣の肖像
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次