やしろ かげより
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 伊達家臣 |
| 大名家 | 伊達氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 「奉行」・苛烈 |
屋代景頼は伊達政宗の側近として仕えた家臣である。政宗の朝鮮出兵中は岩出山城の留守居を務め、白石城・北目城・岩沼城・船岡城の城主を歴任したとされる。慶長12年(1607)に政宗によって改易され、即日追放された。
出自と伊達家での地位
景頼は永禄6年(1563)に伊達家臣屋代修理の子として生まれたとされる。屋代氏は出羽国置賜郡に本拠を持った家とされる。通称は勘解由兵衛である。
景頼は政宗の側近として用いられ、天正14年(1586)に白石城主、天正19年(1591)に北目城主となったとされる。天正18年(1590)には本領5千石を返されたという。
一揆鎮圧と岩出山城の留守居
天正19年、景頼は葛西大崎一揆の鎮圧に加わった。葛西大崎一揆は、豊臣秀吉の奥州仕置で領地を失った葛西氏・大崎氏の旧臣らが起こした一揆である。一揆の後、政宗は米沢から岩出山へ本拠を移した。
文禄元年(1592)、政宗は朝鮮出兵のため国を離れた。景頼はこのとき岩出山城の留守居役を務め、政宗不在の領国を預かったとされる。留守居の任は慶長5年(1600)まで続いたという。
関ヶ原前後と改易
慶長5年、伊達軍は上杉方の白石城を攻め取った。景頼は亘理定宗に従ってこの戦いに加わり、のち上杉方の福島城攻めにも参加したとされる。その後、岩沼城主、慶長7年(1602)には船岡城主となった。慶長11年(1606)冬には領内の再検地の総奉行に任じられたという。
慶長12年(1607)1月、景頼は江戸で改易され、その日のうちに追放された。家臣の成田一平が私刑を行い、景頼がそれをかばったことが理由とされる。景頼はのちに結城秀康への仕官を望んだが、政宗が奉公構(他家への仕官を禁じる処置)をかけたため実現しなかった。近江の佐久間安政の領内に住み、慶長13年(1608)に46歳で没したとされる。
ゆかりの地
- 船岡城址公園(宮城県柴田町):景頼が城主を務めた船岡城の跡
- 岩出山城跡(宮城県大崎市):景頼が政宗の朝鮮出兵中に留守居を務めた城
伊達政宗の側近
景頼は、伊達政宗の側近として仕えた家臣です。1563年に、伊達家の家臣・屋代修理の子として生まれたとされます。
屋代家
屋代家は、出羽の置賜郡に本拠を持った家とされます。景頼の通称は勘解由兵衛でした。
白石城主
景頼は、1586年に白石城主となりました。
北目城主
1591年には北目城主となりました。北目城は、のちの仙台の近くにあった城です。
岩出山城の留守居
政宗が朝鮮出兵に出陣している間、景頼は本拠の岩出山城の留守居を務めました。
政宗の信頼
留守居を任されたことは、景頼が政宗から厚く信頼されていたことを示しています。
奉行として
景頼は、政宗のもとで奉行として、伊達家の政治の実務を担ったとされます。
城主を歴任
景頼は、その後も岩沼城・船岡城などの城主を歴任したとされます。
厳しい政治
景頼は、厳しい態度で政治を行ったとされ、そのことが家中の反発を招いたともいわれます。
改易
1607年、景頼は政宗によって改易され、即日追放されました。
改易の理由
改易の理由ははっきりしていませんが、景頼の権勢や行いが問題とされたとも考えられています。
その後
追放された後の景頼の暮らしについては、詳しいことはわかっていません。
仙台の町づくり
景頼が仕えた時代、政宗は仙台城を築き、仙台の町づくりを進めていました。
側近の栄光と転落
政宗に重く用いられながら、最後は追放された景頼の生涯は、主君の信頼の重さと厳しさを物語っています。
景頼の評価
景頼は、伊達政宗の側近として岩出山城の留守居や各地の城主を務めながら、のちに改易・追放された人物です。その栄光と転落は、伊達家の家臣団の厳しさを伝えています。
このイラストについて
甲冑姿の武将が、旗の立つ砦と曇り空を背にした姿です。
旗の立つ砦は、景頼が城主を歴任した白石や北目などの城をイメージしています。鋭い表情は、政宗の側近として厳しい政治を行ったとされる景頼を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
陸奥国伊達郡を発祥とする家。伊達稙宗と子の晴宗が争った天文の乱(1542〜48年)で一時は勢力を弱めたが、晴宗・輝宗の代に立て直した。
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