まきむら としさだ
| 地域 | 東海(伊勢)・美濃出身 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣秀吉の馬廻、のち伊勢岩出城主(2万650石)。利休七哲の一人、キリシタン大名 |
| 大名家 | 稲葉家 → 牧村家 |
| 家紋 | 不明 |
| 主武器 | 采配・槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足に陣羽織 |
| 武将タイプ | 茶人武将・信仰の人・船奉行 |
牧村利貞(まきむら としさだ)は、豊臣秀吉に仕えた武将で、伊勢の岩出城(いわでじょう、いまの三重県度会郡玉城町)の城主です。「牧村兵部(ひょうぶ)」の名で知られ、千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられる茶人であり、高山右近にすすめられて洗礼を受けたキリシタン大名でもありました。美濃の名門・稲葉家に生まれ、秀吉の馬廻から2万石余りの大名になりましたが、文禄の役で渡った朝鮮の陣中で病に倒れています。茶の湯、信仰、そして戦場と、豊臣政権の三つの顔をひとりで生きた武将です。
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牧村利貞の早見表
| 生没年 | 天文15年(1546)ごろ〜文禄2年(1593)7月10日。享年48とされる |
|---|---|
| 名前 | 通称は長兵衛。官途は兵部大輔で「牧村兵部」と呼ばれた。諱は利貞のほか政吉・政治とも伝わり、「秀光」と署名した文書もある |
| 生まれ | 美濃の稲葉家。稲葉一鉄の孫(父は稲葉重通)とされ、母方の祖父・牧村政倫の跡を継いだ |
| 主君 | 織田信長 → 豊臣秀吉 |
| 居城 | 伊勢・岩出城(天正18年〈1590〉から) |
| 石高 | 2万650石 |
| 茶の湯 | 千利休の高弟。利休七哲の一人 |
| 信仰 | 天正12年(1584)に高山右近のすすめで受洗 |
| 最期 | 文禄の役で朝鮮に渡り、陣中で病死 |
稲葉一鉄の孫として ― 美濃の牧村家を継ぐ
利貞は、美濃三人衆の一人として知られる稲葉一鉄(良通)の孫にあたります。父は一鉄の長男でありながら家を継がなかった稲葉重通で、母は美濃の土豪・牧村政倫の娘でした。利貞は母方の祖父の跡を継いで「牧村」を名のり、美濃の牧村(いまの岐阜県安八郡あたり)を本拠としたと考えられています。
ただし、出自については「斎藤家の出身」とする茶道関係の伝えもあり、すべてがはっきりしているわけではありません。『寛政重修諸家譜』など武家の系図類は稲葉家の出身とし、歴史の辞典類もおおむねこれに従っています。弟には、のちに伊勢の大名となる稲葉道通がいました。
美濃の武士たちは、斎藤家が滅びたあと織田信長に仕えました。利貞も信長のもとで働いたとみられますが、この時期の活躍を伝える記録はほとんど残っていません。名前が大きく表に出てくるのは、本能寺の変のあと、秀吉に仕えてからのことです。
秀吉の馬廻へ ― 小牧・長久手から九州へ
信長の死後、利貞は秀吉の馬廻(うままわり)となりました。馬廻は主君のすぐそばで戦う親衛隊で、戦場の働きだけでなく、使者や警固などの役目もこなします。秀吉は、尾張以来の子飼いだけでなく、美濃や近江の名家の若者を馬廻に集め、のちの大名候補として育てていきました。利貞もその一人です。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、400〜500の兵を率いて出陣したと伝わります。翌年の四国攻め、天正15年(1587)の九州平定にも加わりました。大軍を率いる大将ではありませんが、秀吉の主な戦にほとんど顔を出している、信頼された側近でした。
高山右近にすすめられて ― キリシタン大名・牧村兵部
天正12年(1584)、利貞は高山右近のすすめで洗礼を受けました。右近は茶の湯の仲間でもあり、利休のもとで顔を合わせる間柄でした。宣教師の記録は、利貞を「万人に愛され」、多くの武将の前で自分がキリシタンであることを進んで口にした人物として描いています。
利貞の信仰は、口先だけのものではありませんでした。家臣にも洗礼を受けさせ、家中をあげてキリシタンにする決意を語ったといいます。また、受洗後は複数いた妻のうち最初の妻ひとりだけを残すことにしたと伝わります。さらに、右近と二人で蒲生氏郷を説き、入信させたことも知られています。氏郷もまた利休七哲に数えられる人物で、茶の湯と信仰が、武将どうしを結ぶ糸になっていたことがわかります。
天正15年(1587)6月、九州平定を終えた秀吉はバテレン追放令を出します。高山右近は信仰を捨てることを拒み、明石の領地を失いました。一方、利貞は大名として豊臣家に仕え続けています。追放令は大名の入信を許可制にするものでしたが、とくに厳しい処分を受けたのは、棄教を拒んだ右近でした。同じ師と同じ信仰を持つ二人が、このとき違う道に分かれたことになります。
利休七哲の一人として
利貞が「利休七哲」に数えられるのは、利休のひ孫にあたる表千家の江岑宗左(こうしんそうさ)が書き残した『江岑夏書(こうしんげがき)』によります。そこに挙げられた七人は、蒲生氏郷・高山右近・細川忠興・古田重然(織部)・芝山宗綱・瀬田正忠、そして牧村利貞です。七哲という呼び方そのものは後の時代のものですが、利休が晩年に心を許した弟子たちの顔ぶれを伝えるものとして重んじられてきました。
七人のうち、氏郷・右近・忠興・織部は合戦や城づくりでも名を残した大名です。それにくらべると利貞は目立たない存在ですが、茶人としては師の利休に近い位置にいました。七哲のうち右近と利貞の二人がキリシタンで、さらに氏郷も一時は洗礼を受けています。利休の茶の湯の場が、宣教師の教えに心を寄せる武将たちの集まる場でもあったことは、この時代の京や大坂の空気をよく表しています。
天正15年10月の北野大茶湯のころ、利貞は秀吉の馬廻として京にいたと考えられます。ただし、利貞が大茶湯でどの席にいたのかを伝える確かな記録はありません。
伊勢・岩出城主へ ― 2万650石の大名
天正18年(1590)、小田原征伐の年に、利貞は伊勢の国内で2万650石を与えられ、岩出城主となりました。岩出は伊勢神宮の外宮・内宮にほど近く、宮川の水運をおさえる土地です。この年、伊勢では織田信雄が国替えを拒んで改易され、秀吉の手で領地の配り直しが進んでいました。神宮のおひざもとを、秀吉は信頼できる側近にまかせたことになります。
キリシタン大名が神宮のすぐそばを治めたというのは、いま考えると少し意外な組み合わせです。利貞が岩出で教会を建てたといった記録は見つかっておらず、領国でどのように信仰を扱ったのかはよくわかっていません。
文禄の役 ― 船奉行から晋州城へ、そして陣中の死
文禄元年(1592)、秀吉は朝鮮への出兵を始めます。利貞は石田三成・大谷吉継らとともに、肥前名護屋で兵や兵糧を渡す船を差配する船奉行をつとめ、自らも海を渡りました。慶尚道の昌原での戦いでは、細川忠興・長谷川秀一らとならんで秀吉から働きをほめられています。
文禄2年(1593)には、朝鮮南部の要地・晋州城の攻撃に加わり、400人の兵を率いて城を囲みました。しかし同じ年の7月10日、利貞は朝鮮の陣中で病に倒れ、48歳で亡くなります。慣れない土地での長い滞陣は、多くの武将や兵の命を病で奪っていました。
岩出城は弟の稲葉道通が引き継ぎ、牧村家は大名としては一代で終わりました。息子の牛之助は幼かったとみられます。娘のおなあは、のちに出家して祖心尼(そしんに)と名のり、江戸城の大奥に仕えたことで知られています。
牧村利貞の人物像
利貞の生涯をたどると、どの場面でも「人と人をつなぐ役」に立っていたことに気づきます。馬廻として秀吉のそばに仕え、茶の湯では利休の高弟として大名たちと席を同じくし、信仰では右近とともに氏郷を導きました。朝鮮出兵で船奉行に選ばれたのも、多くの大名と話のできる人物だったからでしょう。
一方で、大きな城や武勇伝を残さなかったため、利休七哲のなかでは名前の知られていない一人になりました。利休が切腹した天正19年(1591)から2年後、師を追うように異国の陣中で世を去った利貞は、豊臣政権の華やかな茶の湯の時代と、そのあとに続いた朝鮮出兵の時代の両方を、ひとつの人生で通り抜けた人物だったといえます。
牧村利貞をめぐる人物
ゆかりの地
- 岩出城跡(三重県度会郡玉城町):天正18年から利貞が治めた伊勢の城
- 妙心寺 雑華院(京都市右京区):利貞の肖像画が伝わる妙心寺の塔頭
- 名護屋城跡(佐賀県唐津市):船奉行として兵と兵糧を朝鮮へ送り出した拠点





















































