二階堂盛義 | 陸奥須賀川城主、蘆名盛隆の父

二階堂盛義

にかいどう もりよし

地域陸奥国岩瀬郡(福島県須賀川市)
所属勢力・属性二階堂氏(蘆名氏に従属)
大名家二階堂家
家紋―
主武器刀
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ国を守る城主

二階堂盛義は、陸奥須賀川城を本拠とした二階堂氏の当主である。会津の蘆名盛氏に敗れ、嫡男の盛隆を人質に出して和睦した。その盛隆はのちに蘆名家を継いだ。

目次

鎌倉以来の名門・二階堂氏

二階堂氏は藤原南家の流れをくむ一族で、鎌倉幕府で政所の執事などを務めた二階堂行政を祖とする。陸奥岩瀬郡の二階堂氏は、鎌倉時代の末に行政の孫の行朝が下ってきたことに始まるとされる。

須賀川城の築城については、二階堂行続が築いたとする説や、二階堂為氏が文安5年(1448)に築いたとする説など、いくつかの伝えがある。二階堂氏はこの城を中心に、岩瀬郡を治める戦国大名となった。

蘆名氏との戦いと人質

盛義の時代、南奥州では会津の蘆名氏、米沢の伊達氏、常陸の佐竹氏などが勢力を争っていた。盛義は蘆名盛氏と戦ったが敗れ、永禄9年(1566)ごろ蘆名氏に従うことになった。

このとき盛義は、嫡男の盛隆を人質として差し出した。小さな大名が強い隣国と和睦するために、跡継ぎを人質に出すことは珍しくなかった。人質は相手を裏切らないという約束の証しでもあった。

子の盛隆が蘆名家を継ぐ

天正2年(1574)に蘆名家の当主盛興が若くして亡くなると、人質だった盛隆が蘆名家の家督を継いだ。二階堂家の子が、会津の大名家の当主になったのである。これにより二階堂氏と蘆名氏は強く結びつき、盛義は蘆名氏の力を背景に須賀川を守ることになった。

盛義の妻は伊達晴宗の娘で、伊達政宗の伯母にあたる阿南の方(大乗院)である。盛義は天正9年(1581)7月23日に没した。生年ははっきりしない。

盛義の死と二階堂氏の滅亡

盛義の死後、須賀川城は未亡人の阿南の方が城主となり、家老の須田盛秀が実際の城代として支えた。女性の城主が家臣とともに城を守る、戦国時代でも珍しい形であった。天正12年(1584)には蘆名盛隆が黒川城で家臣に殺され、二階堂氏は大きな後ろ盾を失った。

天正17年(1589)10月、阿南の方の甥にあたる伊達政宗が須賀川城を攻めた。城は落ち、戦国大名としての二階堂氏は滅んだ。落城の際には、城下の長禄寺に火が放たれたことが敗北のきっかけになったとも伝わる。二階堂氏の菩提寺である長禄寺では、阿南の方の菩提が弔われている。

ゆかりの地

  • 須賀川城跡(福島県須賀川市諏訪町ほか):二階堂氏の居城。現在は市街地となっている
  • 長禄寺(福島県須賀川市):二階堂氏の菩提寺

参考にした資料

二階堂盛義とは

二階堂盛義は、陸奥の須賀川を本拠とした二階堂氏の当主です。

二階堂氏

二階堂氏は、鎌倉幕府の役人の家から出た名門で、須賀川城を本拠としました。

蘆名家への人質

盛義は、蘆名家との戦いに敗れ、子の盛隆を人質として蘆名家に送りました。

盛隆が蘆名家を継ぐ

のちに盛隆は、蘆名家の当主となりました。

評価

盛義は、須賀川の二階堂氏を率い、子を通じて蘆名家と深く結びついた当主です。盛義の死後、二階堂氏は伊達政宗に滅ぼされました。

このイラストについて

このイラストは、城と煙を背に、兜をかぶった盛義を描いています。

大きな前立ての兜と厳しい表情で、名門の当主としての威厳を表しました。

背後の城は、二階堂氏の本拠・須賀川城をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

二階堂家

鎌倉幕府の政所執事を務めた二階堂氏の流れをくむ家で、陸奥の須賀川城を本拠とした。二階堂盛義は伊達晴宗の娘・阿南姫を妻に迎え、蘆名氏や伊達氏との間で家を保った。

二階堂家の歴史と武将一覧を見る →

家臣団

  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次