関口氏広 | 今川一門の関口家当主、築山殿(家康正室)の父

せきぐち うじひろ

地域駿河国(静岡県)
所属勢力・属性今川氏一門・重臣
大名家今川家
家紋―
主武器―
衣装・甲冑戦国期の具足
武将タイプ一門衆・外交

関口氏広は、今川氏の一門である関口家の当主で、徳川家康の正室築山殿の父である。名は親永・義広とも伝わり、近年は氏純とする見方が有力とされる。家康が今川氏から離れたのち自害したと伝わるが、これを疑う説もある。

目次

いくつもの名前と出自

官途は刑部少輔である。実名は資料によって、義広・氏広・親永などと書かれ、定まっていない。近年の研究では「氏純」が最も有力とされている。

今川氏の一門である瀬名氏貞の次男として生まれ、関口刑部少輔家に婿入りして跡を継いだとされる。生年ははっきりしない。瀬名氏も関口氏も、駿河の大名今川氏の一族である。

今川義元の重臣として

今川氏は足利氏の一族で、駿河・遠江を治めた大名である。義元の時代には三河にも勢力を広げ、一門や重臣が領国の支配や他の大名との交渉を分けて担っていた。氏広もその一人であった。

氏広は今川義元の重臣で、とくに外交の面で働いたことが史料からわかるとされる。

妻は今川義元の妹と伝わる。そのため娘の築山殿は義元の姪にあたるとされてきた。ただし妻の出自については異説もあり、はっきりしない。関口家が二つの家に分かれていたことが、混乱のもとになったという見方もある。

娘・築山殿と家康

氏広の娘(瀬名、のちの築山殿)は、弘治2年(1556)ごろ、今川氏のもとで人質となっていた松平元康(のちの徳川家康)に嫁いだ。義元の養女として嫁いだともいわれる。

永禄2年(1559)、二人の間に長男の竹千代(のちの松平信康)が生まれ、続いて長女の亀姫も生まれた。今川一門の娘と家康との結婚は、今川氏が家康を一族に取り込むためのものであった。

家康の独立と最期

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで義元が討たれると、家康は岡崎城に戻り、やがて今川氏から離れて織田信長と結んだ。娘婿の離反によって、氏広の立場は苦しくなった。

永禄5年(1562)、氏広は今川氏真の怒りを受けて駿河で切腹したと伝わる。しかし永禄9年(1566)まで氏広の動きが文書に残っているとして、この説を疑う見方もある。娘の築山殿は、のちに天正7年(1579)、家康の命によって命を落とし、孫の信康も自害した。

氏広の生涯は、娘と孫の運命とともに、今川氏から徳川氏へと時代が移るなかで翻弄された一門衆の姿をよく表している。

参考にした資料

関口氏広とは

関口氏広は、駿河の今川家の重臣で、家康の正室・築山殿の父です。親永の名でも伝わります。

今川家の一門

氏広は、今川家の一族の娘を妻に迎えたとされ、今川家の中で重い地位にありました。

娘・築山殿

氏広の娘は、家康の正室となりました。のちに築山殿と呼ばれます。

家康の独立

桶狭間の戦いののち、家康は今川家から独立しました。この動きは、氏広の立場を苦しくしました。

評価

氏広は、今川家の重臣として家康と深い縁を持ちながら、家康の独立によって悲しい運命をたどった人物です。

このイラストについて

このイラストは、暗い屋敷の中に立つ氏広を描いています。

紫の羽織と思いに沈んだ表情で、娘と主家の間で苦しんだ父の心の内を表しました。

薄暗い室内は、家康の独立ののちの今川家の重い空気をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

今川家

足利将軍家の一門で、駿河の守護を務めた家。今川氏親は遠江を手に入れ、分国法「今川仮名目録」を定めた。

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主家

家臣団

今川氏真太原雪斎
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