しまだ ひでゆき
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 筒井家臣 |
| 大名家 | 筒井 |
| 家紋 | 丸に違い鷹の羽 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 堅実・忠義 |
筒井順慶の側近。大和の統治や織田家への従属交渉において現場の実務と軍事を支えた。
島田秀順とは
島田秀順は、大和の筒井順慶に仕えた家臣とされる人物です。生没年や家系など、くわしいことを伝える史料は少なく、事績にははっきりしない点が多くあります。
筒井城
筒井家の本拠・筒井城は、今の奈良県大和郡山市にあった平城です。周りを堀で囲んだ造りで、大和の平野の中にありました。
興福寺と大和
大和では、奈良の興福寺が長く大きな力を持ち、国衆の多くは興福寺に仕える武士として力を伸ばしました。筒井家もその一つでした。
順慶の復活
松永久秀に筒井城を奪われた順慶は、信長に従うことで力を取り戻しました。天正5年(1577年)、信長に背いた久秀は信貴山城で滅びました。
大和一国の支配
その後、順慶は信長から大和一国を任されました。順慶は郡山城を本拠とし、大和の城の整理などを進めたとされます。
洞ヶ峠の話
本能寺の変ののち、順慶が洞ヶ峠で明智光秀と秀吉のどちらにつくか様子を見たという話が広まりました。しかし、実際には順慶は洞ヶ峠に出陣していなかったとする見方が有力です。
筒井家の家臣団
筒井家の家臣団には、島左近(清興)や松倉重信などが知られています。秀順も、そうした家臣たちとともに主家を支えたとされます。
順慶の死
順慶は天正12年(1584年)に亡くなり、養子の定次が跡を継ぎました。翌年、定次は伊賀へ移され、大和には豊臣秀長が入りました。
筒井家の改易
定次は、慶長13年(1608年)に家中の不行き届きを理由に改易されました。家臣たちは、それぞれ別の道を歩むことになりました。
家臣たちのその後
筒井家の旧臣の中には、藤堂家などほかの大名家に仕えた者が多くいました。秀順のその後については、はっきりしたことはわかっていません。
郡山城
順慶が本拠とした郡山城は、のちに豊臣秀長が大きく改修し、百万石の城下町の中心となりました。今も石垣や堀が残り、桜の名所としても知られます。
大和の国衆
大和には、筒井家のほかにも越智家・十市家・箸尾家などの国衆がいて、互いに争いを繰り返していました。
筒井順慶
順慶は、幼くして家を継ぎ、松永久秀と長く争いました。のちに信長のもとで大和一国を任されました。
奈良の町
筒井家が治めた大和の中心・奈良は、興福寺や東大寺などの大寺院の門前町として栄えました。
評価
秀順は記録の少ない人物ですが、松永久秀との戦いから大和一国の支配まで、浮き沈みの激しかった筒井家を支えた家臣の一人として伝えられています。
このイラストについて
このイラストは、城と町を見下ろす高台に、槍を手に立つ秀順を描いています。
金色の前立てのついた兜と、引き締まった顔つきで、主家を支えて戦場に立った武将の姿を表しました。
夕日に照らされた城と町並みは、筒井家が治めた大和の盆地をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
大和の筒井城を本拠とした家で、興福寺の衆徒から武士となった。筒井順慶は松永久秀と大和の支配を争い、織田信長に従って大和一国を任された。
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