飯田直景 | 加藤清正の重臣、熊本城普請に活躍した飯田覚兵衛

飯田直景のイラスト(イメージ)

いいだ なおかげ

地域九州(肥後)
所属勢力・属性加藤家臣(加藤家三傑)
大名家加藤家
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ猛将・築城家

飯田直景は、通称の飯田覚兵衛で知られる加藤清正の重臣である。清正と幼いころから共に育ったといわれ、生涯清正を支えた。戦場での武功に加え、熊本城の普請でも腕をふるい、城内の「飯田丸」にその名を残している。

目次

清正の竹馬の友

直景の生年はわかっていない。通称は、はじめ角兵衛と書き、のちに覚兵衛と名のった。清正とは幼いころから共に育った竹馬の友といわれ、その生涯を通じて清正を守り支えた。

加藤家の重臣のなかでも、森本儀太夫らとともに「加藤家三傑」の一人に数えられる。三傑のなかで最も多くの逸話が残る人物でもある。

戦場での働き

天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで活躍し、天草の志岐氏攻めでも手柄を立てた。秀吉から武勲を認められ、白鳥毛の長槍を与えられたと伝わる。

文禄2年(1593)の朝鮮出兵では、朝鮮南部の晋州城攻めに加わった。このとき、亀の甲羅のように屋根をかぶせた「亀甲車」を作って城に迫り、攻め落としたとされる。

熊本城の普請

直景は土木や石垣の工事も得意とした。清正が熊本城を築いたさい、その才覚を発揮した。約180メートルにおよぶ三の丸の百間石垣など、直景の仕事は今も城内の各所に見られるという。

城内の「飯田丸」は、直景が建設と守備を受け持ったことからその名がついた。平成17年(2005)には飯田丸五階櫓が復元された。この櫓は熊本地震で石垣が大きく崩れながらも、角の石垣だけで支えられ「奇跡の一本石垣」として知られるようになった。

清正の死後と晩年

清正の死後は、子の加藤忠広に仕えた。しかし寛永9年(1632)、加藤家は改易となった。直景は同じ年の9月18日に亡くなったとされる。

直景は「わが一生は主計頭(清正)にだまされた」と語ったと伝わる。清正にほめられるうちに、やめどきを失って武士を続けたという意味の言葉で、主君との深い縁を物語っている。また、改易の後に黒田家の客分として福岡に屋敷を構え、清正をしのんで熊本城から銀杏の苗木を持ってきたとも伝わる。

ゆかりの地

  • 熊本城 飯田丸五階櫓(熊本県熊本市中央区):直景が建設と守備を受け持ったことに名が由来する櫓
  • 飯田覚兵衛屋敷跡(福岡県福岡市中央区大名):直景が熊本城から持ってきたと伝わる大銀杏が残る

参考にした資料

飯田直景とは

飯田直景は、加藤清正に仕えた家臣で、清正の幼なじみとして知られます。通称は覚兵衛です。

加藤家の三傑

直景は、森本一久・庄林一心とともに「加藤家の三傑」と呼ばれることがあります。

朝鮮での戦い

直景は、文禄・慶長の役で清正とともに朝鮮に渡り、蔚山城の戦いなどで戦ったとされます。

評価

直景は、清正の幼なじみとして生涯を通じて主君を支え、戦場と城づくりの両面で働いた家臣です。

このイラストについて

このイラストは、熊本城を思わせる天守を背に、槍を構える直景を描いています。

大きな前立ての兜と力強い構えで、清正とともに戦場を駆けた家臣の気迫を表しました。

背後の天守と石垣は、直景が普請に関わった熊本城をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

加藤家

豊臣秀吉の子飼いの武将・加藤清正の家と、その家臣たち。清正は肥後熊本を本拠とし、熊本城を築いたことで知られる。

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家臣団

庄林一心のイラスト(イメージ)森本一久のイラスト(イメージ)
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