なつか まさいえ
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣家臣 |
| 大名家 | 豊臣 |
| 家紋 | 丸に三ツ柏 |
| 主武器 | 太刀・算盤 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 精密・会計 |
豊臣五奉行の一人。算術に秀で、豊臣家の蔵入地管理や関ヶ原の戦いにおける西軍の兵糧方として膨大な物資を算定。
- はじめ丹羽長秀に仕え、天正13年(1585年)に秀吉の直臣となる。算術に長じ、豊臣政権の財政や太閤検地を担った
- 文禄4年(1595年)に近江水口岡山城主となり、のちに12万石。豊臣政権の五奉行の一人に数えられた
- 関ヶ原では西軍として南宮山に布陣したが、吉川広家が動かず戦えないまま退却。水口に戻ったのち、近江日野で自害した
豊臣五奉行・長束正家
長束正家(なつか まさいえ)は、天下人・豊臣秀吉に仕えた武将で、豊臣政権の実務を担った「五奉行」の一人に数えられた人物です。とりわけ算術(財政・計数)に秀で、豊臣家の財政を取り仕切りました。
財政の達人
長束正家は、その卓越した算術の才によって、豊臣家の蔵入地(直轄領)の管理や年貢の計算、兵站の算段などを担いました。天下を治める豊臣政権にとって、こうした財政・計数のスペシャリストは欠かせない存在でした。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、長束正家は石田三成方の西軍に属し、兵糧方(へいろうがた)など兵站の面で西軍を支えました。財政・兵站の達人として、その手腕を発揮したのです。
西軍の敗北とともに
しかし西軍は敗れ、長束正家も戦後に自害に追い込まれました。財政の才で豊臣政権を支えた奉行も、天下分け目の敗戦の前には抗えなかったのです。長束正家の生涯は、算術の才で豊臣家の財政を担った、五奉行の一人の姿を今に伝えています。
算術に長じた財政の奉行
正家ははじめ丹羽長秀に仕えていたが、天正13年(1585年)に秀吉の直臣に取り立てられた。算術に長じ、豊臣家の蔵入地(直轄地)の管理や太閤検地など、政権の財政を担った。天正18年(1590年)の小田原征伐では兵糧奉行として大軍の食糧をまかなっている。
文禄4年(1595年)には近江の水口岡山城主となり、のちに12万石を領した。石田三成・増田長盛・浅野長政・前田玄以とともに五奉行の一人に数えられる。
関ヶ原 ― 南宮山で動けず
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍につき、毛利秀元・吉川広家らとともに南宮山に陣を敷いた。しかし先に布陣していた広家がひそかに東軍と通じて動かなかったため、後ろにいた正家らは山を下りることができず、本戦に加われないまま西軍の敗北を迎えた(「宰相殿の空弁当」の逸話で知られる状況である)。
水口での最期
正家は居城の水口に戻ったが、東軍の池田輝政の弟・長吉らに城を開くよう促されて捕らえられ、近江日野で弟の直吉とともに自害した(亡くなった日と場所には諸説がある)。首は京都の三条河原にさらされた。
水口岡山城跡は平成29年(2017年)に国の史跡となり、山頂の阿迦之宮には正家の霊が祀られている。
長束正家をめぐる人物
ゆかりの地
- 水口岡山城跡(滋賀県甲賀市水口町):正家の居城。国の史跡で石垣が残る。山頂の阿迦之宮に正家の霊が祀られている
- 姫塚(甲賀市水口町北脇):正家の正室・栄子の供養塚
- 南宮山(岐阜県垂井町):関ヶ原で正家が布陣した山
この人物をもっと知る本
- 【一般書】渡邊大門『豊臣五奉行と家康 ― 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』:正家を含む五奉行が関ヶ原に向かう政治の動きを追う










































