もりもと かずひさ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 加藤家(重臣) |
| 大名家 | 加藤家(肥後熊本) |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 先鋒・築城の名手 |
森本一久は加藤清正に仕えた武将で、通称の儀太夫の名で知られる。加藤家の三武将の一人に数えられた。朝鮮出兵での先陣の働きや、城造りの腕で名を残した。
生まれと清正への仕官
一久は永禄3年(1560)に生まれた。父の一慶は山城国山崎に住んでいたとされ、一久も山崎の生まれとする見方がある。
清正に仕えたのは天正11年(1583)5月はじめとする記録がある。一方で、幼いころから清正に仕えたという話も伝わる。賭け相撲をとり、負けたほうが家来になるという約束を、一久は生涯守ったという逸話である。この話には、同じく加藤家の重臣となった飯田覚兵衛も登場する。
朝鮮出兵での活躍
文禄・慶長の役で、一久は清正の軍の先鋒として戦った。晋州城攻めでは、亀甲車を考え出したとされる。身を守りながら城に近づくための、装甲車のような車である。
一久はこの戦いで真っ先に城へ攻めのぼり、火を放ったと伝わる。豊臣秀吉からは、その働きをたたえて「儀」の字を与えられたという。
城造りの名手、津奈木城代
一久は土木工事や城造りにすぐれていた。清正は築城の名人として知られるが、その普請を支えた重要な人物の一人が一久であった。熊本城には、一久の名をとった儀太夫櫓があったという。戦では攻めを得意とする勇猛な武将、平時には城や土木の工事をまかされる技術者という、二つの顔を持っていたのである。
のちに、肥後国葦北郡の津奈木城の城代を任された。津奈木城は、南北朝時代には名和氏の支城、のちに相良氏の支城であった山城である。
慶長17年(1612)6月、一久は津奈木城で病のため亡くなった。53歳であった。主君の清正が亡くなった翌年のことである。
子どもたちと森本家のその後
家は子の一友が継いだ。一友はのちに熊本を離れ、京都に住まいを構えたという。京都の乗願寺には「森本儀太夫」と刻まれた墓があるが、これは一久ではなく一友の墓である可能性が高いとされる。
カンボジアのアンコール・ワットに墨で文字を書き残した森本右近太夫一房は、一久の子と伝えられる。ただし森本家の系譜には一房の名が見えず、謎の多い人物である。
ゆかりの地
- 津奈木城跡(熊本県葦北郡津奈木町岩城):一久が城代を務め、最期を迎えた城の跡
- 熊本城(熊本県熊本市中央区):主君清正の居城。一久の名をとった儀太夫櫓があったという
参考にした資料
森本一久とは
森本一久は、加藤清正に仕えた家臣で、「加藤家の三傑」の一人に数えられます。
朝鮮での活躍
一久は、文禄・慶長の役で清正とともに朝鮮に渡り、各地で戦いました。
城づくり
一久は、城づくりにもすぐれていたとされ、肥後の津奈木城の城代を務めました。
アンコール・ワットの子
一久の子・森本右近太夫は、カンボジアのアンコール・ワットを訪れ、落書きを残したことで知られます。
評価
一久は、清正を戦場と城づくりの両面で支えた家臣です。その家は、のちに遠い異国を訪ねた子を生みました。
このイラストについて
このイラストは、熊本城を思わせる城を背に、腕を組む一久を描いています。
腕を組んだ姿と鋭い目つきで、清正を支えた家臣の頼もしさを表しました。
背後の天守は、加藤清正の熊本城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
豊臣秀吉の子飼いの武将・加藤清正の家と、その家臣たち。清正は肥後熊本を本拠とし、熊本城を築いたことで知られる。
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