さたけ よししげ
| 地域 | 常陸国(茨城県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 佐竹氏(戦国大名)→豊臣政権 |
| 大名家 | 佐竹家 |
| 家紋 | 五本骨扇に月丸 |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 猛将型の戦国大名 |
佐竹義重は、常陸国(茨城県)の太田城を本拠とした戦国大名である。北条氏や伊達政宗と争い、常陸から下野・南奥州へと勢力を広げた。戦場での勇ましさから「鬼義重」と呼ばれたと伝わる。
清和源氏の名門・佐竹氏
佐竹氏は清和源氏の一族である。源義光の孫の昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に住みつき、佐竹氏を名のったのが始まりとされる。佐竹は現在の常陸太田市のあたりの地名である。以来、常陸北部を本拠とする名門として続いてきた。
義重は天文16年(1547)、佐竹義昭の長男として生まれた。幼名は徳寿丸、通称は次郎で、のちに常陸介を名のった。永禄5年(1562)に家督を継ぎ、太田城を拠点に勢力の拡大に乗り出した。
北条・伊達と争った「鬼義重」
義重は常陸国内の統一を進めるとともに、下野国(栃木県)へも兵を進めた。南では関東に勢力を広げる北条氏と対立し、北では伊達政宗と仙道(福島県中通り)をめぐって争った。また、遠く離れた織田信長とも連携した。こうして常陸・下野・南奥州にまたがる勢力圏を築いた。
義重は出陣のたびに武者震いが止まらなかったといわれ、「鬼義重」と呼ばれた。「戦いは人数の多少で決まるものではない」という言葉も、義重のものとして伝えられている。
義宣への家督と豊臣政権
天正14年(1586)ごろ、義重は嫡男の義宣に家督をゆずった。ただし隠居したわけではなく、その後も政治に深く関わり続けた。
天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めると、義宣がこれに参陣し、佐竹家の領地は認められた。義宣の代には54万石余の知行を与えられ、全国でも有数の大名に数えられるまでになった。
秋田への移封とその後の佐竹家
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのあと、義宣の態度が問題とされ、佐竹家は出羽国(秋田県)へ移されて20万石に減らされた。平安時代の終わりから住んできた常陸を、一族はこのとき離れることになった。義重は徳川家康・秀忠父子に働きかけ、義宣が大名として生き残れるよう力を尽くしたという。
義重も秋田へ移り、慶長17年(1612)4月19日、出羽国仙北郡で亡くなった。66歳であった。その後の佐竹家は久保田城(秋田市)を本拠とする久保田藩主として幕末まで続いた。戊辰戦争では新政府軍に味方し、明治には侯爵となった。
ゆかりの地
- 太田城跡(茨城県常陸太田市):佐竹氏代々の本拠。義重もここを拠点に勢力を広げた
- 闐信寺(秋田県秋田市):義重の御霊屋(墓所)がある寺
参考にした資料
佐竹義重とは
佐竹義重は、常陸の佐竹家の当主で、「鬼義重」と呼ばれた武将です。
北条家との戦い
義重は、北関東の諸家と結び、関東に勢力を広げる北条家と戦いました。
伊達家との戦い
義重は、南奥州にも勢力を伸ばし、伊達政宗と争いました。人取橋の戦いでは、政宗を追い詰めたと伝えられます。
子・義宣
義重は、家督を子の義宣に譲りました。義宣は、秀吉のもとで常陸一国をほぼまとめました。
評価
義重は、北条家・伊達家という大きな勢力と渡り合い、佐竹家の最盛期を築いた当主です。
このイラストについて
このイラストは、旗の並ぶ陣で、軍配を手に兵を指図する義重を描いています。
前立ての兜と軍配を差し出す姿で、「鬼義重」と呼ばれた当主の勢いを表しました。
扇の紋の旗は、佐竹家の家紋をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
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清和源氏の流れをくむ常陸の名門。佐竹義重は「鬼義重」とも呼ばれ、関東へ勢力を広げる北条氏と争い、南奥州にも進出して伊達政宗とも戦った。
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