糟屋武則 | 賤ヶ岳七本槍の一人、播磨加古川城主

かすや たけのり

地域近畿・中国
所属勢力・属性賤ヶ岳七本槍
大名家賤ヶ岳七本槍
家紋―
主武器大槍
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ勇猛・不屈

播磨加古川城主の糟屋氏の出身で、黒田孝高の推挙により羽柴秀吉に仕えたとされる武将。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで奮戦し、七本槍の一人に数えられた。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、所領を没収された。

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加古川城の糟屋氏

糟屋武則は織豊時代の武将である。通称は助左衛門。官途は内膳正。姓は「加須屋」「糟谷」とも書く。生年は永禄5年(1562)とする説があるが、確定していない。

糟屋氏は播磨国加古川城(兵庫県加古川市)を拠点とした武家である。城跡に建つ称名寺では、武則を12代加古川城主と伝えている。武則ははじめ三木城の別所長治に属したが、のち黒田孝高(官兵衛)の推挙で羽柴秀吉に仕えたとされる。寺の由緒によれば、三木合戦(1578〜80年)では付城に布陣した。付城とは、敵の城を包囲するために築く陣城である。

称名寺は、天正6年(1578)に秀吉が播磨の諸将を集めた「加古川評定」の場でもある。この会議は播磨の行方を分けたとされ、その後、三木城の別所長治は秀吉から離れた。こうして約2年に及ぶ三木合戦が始まった。

賤ヶ岳の七本槍

天正11年(1583)、秀吉は近江の賤ヶ岳で柴田勝家と戦った。この戦いで奮戦した秀吉方の若い武将7人が「七本槍」とたたえられ、武則もその一人に数えられる。ほかの6人は福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・片桐且元である。

戦後、武則は所領を与えられた。その後も加増を受け、加古川で1万2千石を領したとされる。天正18年(1590)の小田原征伐や、文禄元年(1592)からの朝鮮出兵にも加わったとされる。ただし、前線での具体的な戦功ははっきりしない。

関ヶ原と改易

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、武則は石田三成らの西軍に属した。伏見城攻めに加わったとされる。西軍の敗北により、所領は没収された。

改易後の消息には諸説があり、没年もはっきりしない。のちに旗本として召し抱えられたとする説もあるが、確かなことは分かっていない。

ゆかりの地

  • 称名寺・加古川城跡(兵庫県加古川市):糟屋氏の居城跡に建つ寺。武則を12代加古川城主と伝える

参考にした資料

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