きむら きよひさ
| 地域 | 東北・関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣家臣 |
| 大名家 | 豊臣 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 軽捷具足 |
| 武将タイプ | 悲壮・籠城 |
木村清久(?〜1615)は豊臣秀吉の家臣木村吉清の子で、通称は弥一右衛門尉。葛西大崎一揆で父とともに陸奥の佐沼城に包囲され、伊達政宗・蒲生氏郷の軍に救出された。のち豊後で1万4000石を継ぎ、関ヶ原で西軍に属して改易されたとされる。
奥州の新領主・木村父子
木村清久は豊臣秀吉の家臣木村吉清の子である。吉清ははじめ明智光秀に仕え、のち秀吉に仕えた。
天正18年(1590)の奥州仕置で、秀吉は小田原に参陣しなかった葛西氏・大崎氏の領地を取り上げた。その旧領30万石が吉清に与えられ、吉清は登米城(宮城県登米市)に入った。清久は大崎氏の旧領にある古川城(宮城県大崎市)に入ったとされる。木村氏にとっては大きな抜擢であったが、旧領の武士たちを抑える兵力は十分ではなかったとされる。
葛西大崎一揆と佐沼城
同年10月初め、加美郡で旧葛西・大崎家臣らの一揆が起こり、旧領全域に広がった。これが葛西大崎一揆である。新領主の急な支配に対する反発が背景にあった。
清久は父吉清とともに登米郡の佐沼城(宮城県登米市)で一揆勢に包囲された。秀吉の命を受けた伊達政宗と蒲生氏郷が討伐に向かい、11月24日に木村父子は救出された。
木村氏は一揆を招いた責任を問われ、翌天正19年に領地を失った。一揆はこの年の夏、政宗の再出兵で鎮圧された。一揆の後、葛西・大崎の旧領は伊達政宗に与えられ、政宗は米沢から岩出山(宮城県大崎市)に本拠を移した。
豊後の所領と最期
吉清はその後、蒲生氏郷の与力となり、陸奥信夫郡の福島城主となった。文禄3年(1594)ごろには豊後国内で1万4000石を与えられた。吉清の死後は清久が継いだとされ、慶長4年(1599)の分限帳に1万4000石の領主として名がみえるという。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、近江の瀬田橋の守りについたとされる。戦後に改易された。慶長19年(1614)からの大坂の陣では大坂城に入って足軽大将を務め、翌年5月7日、天王寺方面の戦いで討死したと伝わる。
ゆかりの地
- 佐沼城跡(宮城県登米市):葛西大崎一揆で木村父子が包囲された城
- 登米城跡(宮城県登米市):父吉清が入った葛西氏旧領の拠点










































