かじわら かげゆき
| 地域 | 播磨国(兵庫県高砂市) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 赤松氏の船手(水軍)→毛利方 |
| 大名家 | 赤松氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 水軍(船団) |
| 衣装・甲冑 | 戦国期の胴丸 |
| 武将タイプ | 水軍の将 |
梶原景行は、戦国時代に播磨国の高砂城(兵庫県高砂市)を治めた武将である。軍記物では「景行」と書かれるが、本人が寄進した経机の銘文から、実名は「景秀」が正しいとされる。守護赤松氏の水軍を務め、三木合戦では毛利方について三木城を海から支えたと伝わる。
梶原氏と港町・高砂
梶原氏は、源頼朝の側近として知られる梶原景時の一族の流れをくむと伝わる家である。鎌倉のころから船の戦いにかかわり、源平の争いでは屋島の戦いでも働いたとされる。
播磨の梶原氏は、加古川の河口にある高砂を本拠とした。高砂は瀬戸内海に面した港で、海の交通の要所だった。梶原氏は守護赤松氏の船手、つまり水軍の将として力をもった。
ただし、高砂城がどこにあったかは今もはっきりしない。小松原のあたりとする説や、今の高砂神社のあたりとする説があるが、どちらも確定していない。
景秀という人物
景行(景秀)は通称を平三兵衛尉といい、父は駿河守助景とされる。生まれた年も亡くなった年もわかっていない。
弟の左兵衛が慶長16年(1611)に71歳で亡くなった記録がある。そこから、兄の景秀は天文の初めごろ(1530年代)の生まれと推定されている。永禄12年(1569)には、赤松義祐に従って戦ったとされる。
三木合戦と高砂城
天正6年(1578)、東播磨の別所長治が織田信長にそむき、三木城(兵庫県三木市)にこもった。羽柴秀吉はこの城を長く囲み、食べ物が入らないようにする兵糧攻めを行った。これが三木合戦である。
このとき梶原氏は毛利輝元の側についた。毛利氏や本願寺、雑賀衆と力を合わせ、海や川を使って三木城へ兵糧を運んだと伝わる。
軍記物『播州太平記』などによれば、秀吉は補給の道を断つために高砂城を攻めた。景行はよく戦ったが、やがて城を退いたという。鶴林寺(加古川市)に身を寄せたとも伝わる。
その後と一族
その後の景秀は秀吉に従ったとみられる。しかし九州攻めに遅れて参陣したため、領地を取り上げられたとされる。のちに出家して永宗と名のり、病で亡くなったという。
弟の左兵衛の子、梶原五郎右衛門は宇喜多氏に仕え、300石を与えられたと伝わる。高砂の海を支配した梶原氏は、戦国の終わりとともに城主の座を失ったのである。
ゆかりの地
- 高砂神社(兵庫県高砂市高砂町):高砂城があった場所の候補の一つとされる
- 三木城跡(兵庫県三木市上の丸町):梶原氏が海から兵糧を送って支えた別所氏の城
参考にした資料
梶原景行とは
梶原景行は、播磨の高砂城を本拠とした梶原氏の武将です。
高砂という港町
高砂は、加古川の河口にある港町で、瀬戸内海の水運の拠点でした。
三木合戦
三木合戦の際、梶原氏は別所家に味方し、高砂城は海から三木城へ兵糧を運ぶ拠点となったとされます。
高砂城の戦い
高砂城は、羽柴軍に攻められました。景行の動きについては、伝えによって異なるところがあります。
評価
景行は、播磨の港町・高砂を押さえた一族の武将として、三木合戦の時代を生きた人物です。
このイラストについて
このイラストは、川と港を見下ろす高台に立つ景行を描いています。
大きな前立ての兜と赤い甲冑で、港町を守った武将の姿を表しました。
川と平野は、加古川の河口にある高砂の景色をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
室町幕府の侍所の長官を務める四職の一つで、播磨・備前・美作の守護を兼ねた名門。1441年に赤松満祐が将軍足利義教を殺害した嘉吉の乱で一度滅びたが、のちに再興された。
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