戦国時代、戦に負けそうになった大名や武将は、降伏して命や領地を守ろうとしました。では、織田信長と豊臣秀吉は、降ってきた相手や背いた相手をどう扱ったのでしょうか。結論からいうと、信長は「背いた者は滅ぼす」ことが多く、秀吉は「降れば残す」ことが多い天下人でした。この記事では、主な大名・武将14人ずつを取り上げて、その違いを比べます。
はじめに:数え方について
「降伏した大名は何人」という数は、史料にまとまった記録があるわけではなく、小さな国衆まで数えると数え方しだいで大きく変わります。そこでこの記事では、名の知られた大名・有力武将を信長・秀吉それぞれ14人ずつ選び、「滅ぼした・処断した」「一度許し、のちに処断・改易した」「許して残した」の三つに分けました。数字は、あくまでこの記事で取り上げた範囲のものです。
ひと目でわかる比較表
| 織田信長 | 豊臣秀吉 | |
|---|---|---|
| 基本の方針 | 背いた者、最後まで抵抗した者は滅ぼすことが多い | 降れば、領地を認めて家臣団に組みこむことが多い |
| この記事の14人の内訳 | 滅ぼした8・一度許して後に処断1・残した5 | 滅ぼした4・一度許して後に処断・改易2・残した8 |
| よく使った条件 | 城を明け渡し、一族ごと従う/追放 | 大将の切腹と引き換えに城兵を助ける、領地の一部を差し出す |
| 代表的な「滅ぼした」相手 | 浅井・朝倉・武田、荒木一族、波多野 | 柴田勝家、北条(氏政は切腹) |
| 代表的な「残した」相手 | 足利義昭(追放)、本願寺(和睦)、筒井順慶 | 毛利・長宗我部・島津・徳川・上杉・伊達 |
| 背かれた回数 | 浅井・松永(二度)・荒木・別所・明智と、たびたび背かれた | 天下人になってからの大きな謀反は少ない |
| 天下統一までにかかった時間 | 上洛(1568年)から本能寺(1582年)まで14年でも未完 | 本能寺(1582年)から小田原(1590年)まで8年で統一 |
図で見る「その後」

織田信長:背いた者は許さない
浅井・朝倉・武田を滅ぼす
天正元年(1573年)、信長は越前の朝倉義景と近江の浅井長政を相次いで滅ぼしました。長政は妹・市の夫でしたが、降伏の勧めを受け入れず小谷城で自害し、嫡男の万福丸も処刑されたと伝わります(第17回「小谷落城」の振り返り)。天正10年(1582年)には武田勝頼を天目山に追いつめ、武田家も滅びました。
降伏しても許されなかった例
丹波の波多野秀治は、天正7年(1579年)に明智光秀に降伏したあと、安土に送られて処刑されました。摂津の荒木村重が背いたときは、村重本人は城を抜け出したものの、残された妻のだしや一族・家臣が処刑されています(第24回「軍師官兵衛!」の振り返り)。天正2年(1574年)の長島一向一揆では、降伏して城を出てきた人々まで攻めたとされます。
一方で、播磨の別所長治は天正8年(1580年)、自分と一族が切腹するのと引き換えに城兵の命を助けてもらいました。この「大将の命で兵を助ける」形は、このとき攻め手の大将だった秀吉が、のちによく使う方法になります。
二度目はなかった:松永久秀
松永久秀は、信長に一度背いたとき、城を差し出して許されました。しかし天正5年(1577年)にふたたび背くと、もう許されず、信貴山城で自害しています(第20回「本物の平蜘蛛」の振り返り)。
許した相手もいた
信長がいつも相手を滅ぼしたわけではありません。将軍の足利義昭は、天正元年に挙兵して敗れたあと、命は取らずに京から追放しました。10年にわたって戦った本願寺とも、最後は朝廷の仲立ちで和睦し、大坂から退かせています。大和の筒井順慶、備前の宇喜多直家、武田から寝返った木曽義昌のように、自分から従ってきた者は家臣や味方として残しました。
豊臣秀吉:降れば残す
大将の切腹と引き換えに、兵を助ける
秀吉は、城を囲んで兵糧を断ち、最後は城の大将の切腹と引き換えに城兵を助ける、という終わらせ方をよく使いました。播磨の三木城(別所長治)、因幡の鳥取城、備中高松城の清水宗治がその例です。紀伊の太田城の水攻めでも、首謀者を処罰して城兵を許しています(太田城の水攻めの解説)。
大大名は、領地を認めて家臣団に
秀吉は、戦った相手でも降れば領地を認めました。毛利輝元は中国地方の大部分を保ち、長宗我部元親は天正13年(1585年)に降伏して土佐一国を認められました(四国攻めの解説、第36回の振り返り)。島津義久は天正15年(1587年)、剃髪して秀吉の前に出て、薩摩・大隅を安堵されています(九州征伐の解説)。
戦で勝てなかった徳川家康には、妹や母まで送って上洛させ、5か国の領地をそのまま認めました(小牧・長久手の戦いの解説)。上杉景勝も上洛して越後を保ち、小田原征伐に遅れて参陣した伊達政宗も、領地を減らされただけで許されています。
それでも厳しかった相手
秀吉が許さなかった相手もいます。賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家は北庄城で自害し、勝家の甥の佐久間盛政は捕らえられて処刑されました。勝家と結んだ織田信孝も自害に追いこまれています(賤ヶ岳の戦いの解説、第33回の振り返り)。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、北条氏政とその弟・氏照に切腹を命じましたが、当主の北条氏直は家康の娘婿だったこともあり、命を助けて高野山へ送りました(小田原征伐の解説)。
一度許してから厳しくした例もあります。佐々成政は天正13年(1585年)に降伏して許されましたが、肥後で国人一揆を起こされた責任を問われ、天正16年(1588年)に切腹しました。織田信雄も、小牧・長久手で和睦したあと、天正18年に国替えを断って領地を取り上げられています。
なぜ違いが生まれたのか
1. 信長は「見せしめ」で裏切りを防ごうとした
周りを敵に囲まれていた信長にとって、裏切りは命取りでした。背いた者を厳しく処すことで、ほかの者に「背けばこうなる」と示したと考えられます。ただし、その厳しさがかえって家臣や同盟相手を追いつめ、謀反を呼んだという見方もあります。
2. 秀吉は「早く終わらせる」ことを優先した
本能寺の変のあと、秀吉は織田家の家臣の一人から、短い期間で天下人にならなければなりませんでした。一つずつ滅ぼしていては時間も兵糧も足りません。降れば領地を認めるという約束は、相手に「戦うより降ったほうが得」と思わせる強い武器でした。秀吉が大名どうしの私戦を禁じた惣無事令も、この考え方の延長にあります(惣無事令・太閤検地・刀狩)。
3. 成り上がりの秀吉には、大名の協力が必要だった
代々の家臣も名家の血筋も持たない秀吉にとって、各地の大名に味方になってもらうことは天下を治めるための前提でした。降した大名を家臣団に組みこんだことで、秀吉の勢力は一気に全国の4分の3にまで広がりました(信長と秀吉の領地・石高を比較)。
強さと弱さをくらべる
信長のやり方の強さ
- 家臣の領地を自由にできる:滅ぼした相手の土地を家臣に与え、自分の思いどおりに配置できた
- 緊張感:背けば終わりという厳しさが、家臣や同盟相手の動きを引きしめた
信長のやり方の弱さ
- 時間がかかる:敵を一つずつ滅ぼすため、戦いが長引いた。本願寺との戦いは10年におよんだ
- 謀反を呼ぶ:許されないと思った者は、最後まで抵抗したり、先に背いたりした
秀吉のやり方の強さ
- 早い:降伏しやすくすることで、四国・九州・関東を短い期間で従えた
- 兵と費用の節約:大きな合戦を避け、兵糧攻めや交渉で決着をつけた
秀吉のやり方の弱さ
- 大大名が残る:毛利・島津・徳川などの大きな力をそのまま抱えこんだ。とくに家康は、のちに豊臣家をしのぐ存在になった
- 心からの忠誠とは限らない:損得で降った大名は、秀吉の死後、損得で家康についた
まとめ
信長は、背いた者を滅ぼすことで力を示し、家臣に新しい領地を与えて家臣団を育てました。秀吉は、降った者を生かすことで戦を早く終わらせ、全国の大名を家臣団に組みこみました。「滅ぼす信長」と「生かす秀吉」のちがいは、そのまま二つの政権の強さと弱さにつながっています。家臣団の作りのちがいは織田家臣団と秀吉家臣団を比較でも解説しています。
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