まつだ やすなが
| 地域 | 関東(相模)・伊豆 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 北条家の家臣。御馬廻衆、奏者・奉行衆。山中城主 |
| 大名家 | 北条家 |
| 家紋 | 不明 |
| 主武器 | 采配・槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 実務派の重臣・城づくりの責任者 |
松田康長(まつだ やすなが)は、北条家に仕えた武将で、箱根の山中城(いまの静岡県三島市)の城主です。北条家の筆頭家老・松田憲秀のいとこにあたり、合戦と政務の両方で北条氏康・氏政・氏直の三代を支えました。秀吉との決戦が近づくと山中城の大改修を任され、天正18年(1590)、豊臣秀次の率いる7万近い大軍を迎え撃ちます。城は半日で落ち、康長は本丸で討死しました。北条家が箱根で豊臣軍を食い止めようとした計画の、最前線の責任者だった人物です。
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松田康長の早見表
| 生没年 | 天文6年(1537)〜天正18年(1590)3月29日。享年54とされる |
|---|---|
| 名前 | 通称は助六郎、兵衛大夫。官途は筑前守。のちに清秀と改名 |
| 父 | 松田康定(筑前守)。康長はその長男 |
| 一族 | 筆頭家老・松田憲秀とはいとこ。弟に松田康郷ら |
| 主君 | 北条氏康 → 氏政 → 氏直 |
| 役目 | 御馬廻衆(永禄2年の役帳で約700貫文)、奏者・奉行衆 |
| 居城 | 山中城(天正17年から城主) |
| 最期 | 山中城の本丸で討死 |
松田家 ― 北条家の筆頭家老の一族
松田家は、北条早雲の時代から北条家に仕えた重臣の家です。相模の松田郷(いまの神奈川県足柄上郡松田町)を名字の地とし、代々北条家の家老として重きをなしました。康長の父・康定は、筆頭家老・松田盛秀の弟にあたり、康長は盛秀の子の憲秀とはいとこの関係になります。
永禄2年(1559)に北条家がまとめた家臣の名簿『小田原衆所領役帳』には、康長が当主の親衛隊である御馬廻衆として約700貫文の所領を持っていたことが記されています。若いころから当主の身近に仕える、信頼の厚い家臣だったことがわかります。
戦場と政務の両方で
康長は戦場でも働きました。天正10年(1582)、本能寺の変のあとに上野で起きた神流川(かんながわ)の戦いでは、北条軍が織田家の滝川一益を破り、康長も手柄を立てています。
一方で、康長の名は北条家が出した多くの文書にも残っています。当主の命令を取り次ぐ奏者や、領国の実務を担う奉行衆として、寺社への命令や、市場での自由な商いを認める楽市の制度などにかかわりました。北条家は「民に優しい政治」で知られた大名ですが、その政治を現場で動かしていたのが、康長のような実務派の家臣たちでした。
山中城の大改修 ― 箱根で秀吉を止めるために
天正15年(1587)、九州を平定した秀吉の目が関東に向けられると、北条家は戦いの備えを急ぎます。同じ年の11月、康長は箱根の山中城の普請を任されました。もともと東海道の関所の役割を持っていた小さな城を、大軍を食い止めるための本格的な城へと造りかえる大工事です。城の南西に長い岱崎出丸を張り出し、北条家が得意とした障子堀を各所にめぐらしました。
天正17年(1589)、名胡桃城事件をきっかけに秀吉が北条家に宣戦すると、康長は正式に山中城の城主となりました。康長は、豊臣軍を箱根の山の中ではなく、足柄城や山中城といった手前の城で迎え撃つべきだと進言していたと伝わります。ただ、豊臣軍は兵糧が続かず長い戦いにはならないだろうと考えていたともいわれ、秀吉が整えた大がかりな補給の力を見誤っていた面もあったようです。
山中城の戦い ― 本丸での最期
天正18年(1590)3月29日、総大将・豊臣秀次の率いる約6万8,000の豊臣軍が山中城に攻めかかりました。守る北条方は3,000〜4,000。康長は本丸で全体を指揮し、玉縄城から援軍に来た北条氏勝が二の丸を、老将の間宮康俊が岱崎出丸を守りました。
岱崎出丸では、間宮康俊の鉄砲隊が豊臣方の先鋒・一柳直末を討ち取るなど、北条方は激しく抵抗しました。しかし、徳川家康の部隊が西の丸を落とすと、城の守りは一気に崩れます。三の丸、二の丸が次々に破られ、氏勝は城を脱出しました。最後まで本丸に残った康長は、押し寄せる豊臣軍と戦って討死します。自ら築いた城とともに果てた最期でした。詳しい戦いの流れは山中城の戦いをわかりやすく解説をご覧ください。
二人の松田 ― 康長と憲秀
同じ松田家でも、いとこの松田憲秀は、まったく違う最期を迎えました。小田原城にこもっていた憲秀は、籠城のさなかに豊臣方に内通しようとして発覚し、北条家が降伏したあと、秀吉の命で切腹させられています。最前線の城で敵と戦って散った康長と、主家を裏切ろうとして責めを負った憲秀。北条家の最後の数か月に、同じ一族の二人は正反対の道を歩んだことになります。
康長の子の直長は、のちに徳川家に仕え、子孫は旗本として家を残しました。山中城跡の宗閑寺には、康長の墓が、間宮康俊、一柳直末の墓と並んで残っています。
松田康長をめぐる人物
ゆかりの地
- 山中城跡(静岡県三島市):康長が改修し、城主として最後まで守った城
- 宗閑寺(静岡県三島市):山中城の三の丸跡に建つ寺。康長の墓がある
- 小田原城(神奈川県小田原市):康長が仕えた北条家の本拠




















































