きし のぶちか
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 斎藤家臣 |
| 大名家 | 斎藤 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大太刀 |
| 衣装・甲冑 | 漆黒重厚具足 |
| 武将タイプ | 不屈・殉節 |
岸信周は美濃の斎藤氏に属した中濃(美濃中部)の武将で、堂洞城(岐阜県美濃加茂市)の城主である。通称は勘解由左衛門。永禄8年(1565)、織田信長に攻められた堂洞合戦で城は落ち、信周は討死したとされる。
信長の美濃攻めと中濃
当時の美濃は斎藤龍興が治めていた。尾張の織田信長は永禄年間を通じて美濃攻略を進め、永禄10年(1567)に斎藤氏の本拠・稲葉山城を落とす。堂洞合戦は、その前に中濃の諸城を切り崩した戦いの一つである。
中濃の堂洞城主
岸信周は戦国時代の美濃の武将である。通称は孫四郎・勘解由左衛門、受領名は佐渡守と伝わる。生年は不詳。美濃の斎藤氏に属し、中濃(美濃中部)の堂洞城を守った。
当時の中濃には、関城の長井道利、加治田城の佐藤忠能、堂洞城の岸氏がいた。三者は信長の美濃侵攻に備えて連携したとされ、これを「中濃三城盟約」と呼ぶことがある。
加治田城の離反
永禄8年(1565)7月、加治田城の佐藤忠能が信長方についた。堂洞城は、信長方となった加治田城と向き合う最前線になった。
後世の軍記物などは、信周が忠能の娘を養女(事実上の人質)として預かっており、離反を受けて殺害したと伝える。信長が信周に降伏を勧め、信周が応じなかったという話も、主に軍記物に見える。
堂洞合戦
信長は鵜沼城・猿喰城を攻め落としたのち、堂洞城を包囲した。『信長公記』によると、織田軍は城に松明を投げ入れて二の丸を焼き、本丸に攻め込んだ。戦いは昼から夕方まで続いた。『信長公記』の作者・太田牛一や、河尻秀隆、丹羽長秀らがこの戦いで働いている。
堂洞城は落城し、信周は討死した。妻が薙刀をふるって戦い、夫と刺し違えて自害したとの伝承がある。嫡男の信房も城で死んだとされる。一方で、幼い子の一人は乳母に連れられて城を逃れたとも伝わる。
翌日、斎藤方の軍勢が引き上げる信長軍を襲ったが、信長軍はこれを退けて小牧山城に戻った。落城の日付は8月28日とする説と、9月28日とする記述がある。
ゆかりの地
- 堂洞城跡(岐阜県美濃加茂市):信周の居城跡。富加町との境に位置する
- 加治田城跡(岐阜県加茂郡富加町):信長方に転じた佐藤忠能の居城

























