くろだ もとたか
| 地域 | 近畿(播磨・姫路) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 小寺氏(家老)→ 織田・羽柴方 |
| 大名家 | 黒田家 |
| 家紋 | 藤巴 |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 家を固めた父 |
黒田職隆(くろだ もとたか)は、黒田官兵衛(孝高)の父である。大永4年(1524年)に生まれ、天正13年(1585年)に62歳で亡くなった。播磨の御着城主・小寺政職の家老として姫路城をあずかり、黒田家が播磨で力を持つ基礎を築いた。
3行でわかる黒田職隆
- 播磨の小寺家に仕え、姫路城をあずかる家老となった
- 永禄10年(1567年)ごろ、家督を子の官兵衛にゆずった
- 官兵衛が有岡城に幽閉されたとき、姫路を守り黒田家を支えた
目次
小寺家の家老
黒田家は近江の出身ともいわれ、職隆の父・重隆の代に播磨に移ったと伝わる。目薬を売って財をなしたという話もあるが、これは伝承である。
職隆は播磨の御着城主・小寺政職に仕え、その信頼を得て小寺の名字を与えられ、姫路城をあずかる家老となった。
官兵衛に家督をゆずる
永禄10年(1567年)ごろ、職隆は家督を子の官兵衛にゆずり、隠居した。官兵衛はその後、織田信長に味方することを主君の小寺政職に説き、羽柴秀吉の播磨攻めを支えることになる。
有岡城の危機
天正6年(1578年)、摂津の荒木村重が信長に背くと、官兵衛は村重を説得しに有岡城に向かい、そのまま捕らえられて幽閉された。信長は官兵衛が裏切ったと疑ったが、職隆は家臣たちをまとめて黒田家の結束を守った。
官兵衛は翌年に救い出され、黒田家はその後、秀吉の重臣として大きく出世していく。職隆は天正13年(1585年)に亡くなった。
黒田職隆をめぐる人物
- 子:黒田官兵衛(孝高)
- 孫:黒田長政
- 主君:小寺政職
- 父:黒田重隆
ゆかりの地
- 姫路城(兵庫県姫路市):職隆があずかった城
- 御着城跡(兵庫県姫路市):主君・小寺政職の居城
- 黒田職隆廟所(兵庫県姫路市):職隆の墓所


黒田官兵衛
黒田長政
豊臣秀吉
荒木村重






































