平野長泰 | 賤ヶ岳七本槍の一人。大和田原本5000石の旗本

ひらの ながやす

地域近畿・関東
所属勢力・属性豊臣家臣→徳川旗本(交代寄合)
大名家賤ヶ岳七本槍
家紋―
主武器大槍
衣装・甲冑黒塗具足
武将タイプ堅実・武骨

平野長泰(1559〜1628)は尾張出身の武将で、通称は権平。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで「七本槍」の一人に数えられた。のち大和国十市郡田原本で5000石を領し、関ヶ原では東軍に属した。子孫は江戸時代を通じて旗本として田原本を治めた。

目次

尾張から秀吉の近臣へ

平野長泰は永禄2年(1559)、尾張津島に生まれた。父は平野長治。本姓は清原で、初名は長勝という。通称の「権平」で知られる。

天正7年(1579)から羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。のちに従五位下・遠江守に任じられた。

賤ヶ岳の七本槍

天正11年(1583)、秀吉は近江の賤ヶ岳で柴田勝家と戦った。この戦いで功名をあげた秀吉の近臣7人が「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる。長泰はその一人で、福島正則・加藤清正・片桐且元らと並び称される。戦後、秀吉から3000石を与えられた。

文禄4年(1595)には4000石の加増を受け、大和国十市郡で計5000石を領した。拠点は田原本(奈良県田原本町)である。この2通の秀吉の感状は田原本町の指定文化財で、所領が町内の7か村にあったことを示す。七本槍の多くはのちに大名となったが、長泰の所領は5000石にとどまった。

関ヶ原と大坂の陣

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後に所領を安堵された。徳川秀忠の中山道隊に加わったとされ、その場合は本戦に間に合っていない。

慶長19年(1614)からの大坂の陣では、江戸の留守居を命じられた。豊臣家への旧恩から大坂城に入ることを家康に願い出たが許されなかった、という話も伝わる。ただし確かな史料での裏付けは乏しい。寛永5年(1628)に没した。

田原本の平野家

長泰は伏見に住み、田原本の支配は教行寺に任せていたとされる。2代長勝が寺川沿いに陣屋を築き、領地を直接治めた。

平野家の身分は旗本だが、参勤交代を行う「交代寄合」として大名に準じる扱いを受けた。明治元年(1868)、新政府の高直し(石高の見直し)によって大名となり、田原本藩が成立した。

ゆかりの地

  • 田原本陣屋跡(奈良県田原本町):平野家の陣屋があった場所。のちに小学校となり、現在は町役場の敷地となっている
  • 平野権平(長泰)宛豊臣秀吉感状(奈良県田原本町):賤ヶ岳の恩賞と文禄4年の加増を記した2通。町指定文化財

参考にした資料

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