豊臣秀保 | 秀長の養子で大和郡山城主「大和中納言」。17歳で急死し、大和大納言家は断絶した

豊臣秀保のイラスト(イメージ)

とよとみ ひでやす

地域近畿(大和・紀伊)
所属勢力・属性豊臣氏(秀長の養子)
大名家豊臣家(大和豊臣家)
家紋五七桐
主武器―
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ若き後継ぎ

豊臣秀保(とよとみ ひでやす)は、豊臣秀長の養子で、秀長のあとを継いで大和郡山城主となった大名である。天正7年(1579年)に生まれ、文禄4年(1595年)に17歳で亡くなった。中納言の位にあったことから「大和中納言」と呼ばれる。秀保の死によって、秀長の家(大和大納言家)は絶えた。

3行でわかる豊臣秀保
  • 秀吉の姉・とも(日秀)の子で、豊臣秀次・秀勝の弟
  • 叔父の秀長の養子となり、天正19年(1591年)に大和・紀伊などの領地を継いだ
  • 文禄4年(1595年)に17歳で急死し、秀長の家は断絶した
目次

秀長の養子に

秀保は、秀吉の姉・とも(日秀)と三好吉房の三男である。兄に、のちに関白となる豊臣秀次と、豊臣秀勝(小吉)がいる。

秀長には跡を継ぐ男子がいなかったため、秀保は秀長の養子となり、秀長の娘と結婚した。天正19年(1591年)に秀長が亡くなると、わずか13歳で大和・紀伊などの大きな領地と大和郡山城を受け継いだ。

大和中納言

若い秀保を支えたのは、横浜一庵や羽田正親など、秀長の時代からの重臣たちだった(豊臣秀長の家臣一覧)。藤堂高虎も秀保の後見役をつとめている。

文禄の役(朝鮮出兵)では、秀保も軍を出し、肥前の名護屋に陣を置いた。官位は権中納言にまで進み、「大和中納言」と呼ばれた。

17歳の急死と家の断絶

文禄4年(1595年)4月、秀保は大和の十津川で療養していたところ、17歳で急死した。死因ははっきりせず、病気説のほか、高い所から落ちた、川でおぼれたなど、さまざまな話が伝わる。

秀保には子がなく、秀長から続いた大和大納言家はここで絶えた。同じ年の7月には兄の秀次も切腹しており、豊臣家の一族は次々と姿を消していった。秀長の家臣たちは、秀吉の直属となったり、ほかの家に移ったりしてばらばらになった。

豊臣秀保をめぐる人物

  • 実父・実母:三好吉房/とも(日秀)
  • 養父:豊臣秀長
  • 兄:豊臣秀次/豊臣秀勝
  • 重臣:横浜一庵/羽田正親/藤堂高虎

ゆかりの地

  • 郡山城跡(奈良県大和郡山市):秀保の居城
  • 十津川(奈良県吉野郡十津川村):秀保が亡くなった地
  • 大光院(京都市北区):秀長・秀保の菩提寺(もとは大和郡山にあった)
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