しまづ ただつね
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 島津氏 |
| 大名家 | 島津氏 |
| 家紋 | 丸に十字 |
| 主武器 | 太刀(十文字槍)・采配 |
| 衣装・甲冑 | 漆黒重厚具足 |
| 武将タイプ | 「島津家久」・苛烈 |
島津義弘の三男(初代薩摩藩主)。伊集院忠棟暗殺や琉球出兵を断行。圧倒的武勇と苛烈な性格で薩摩藩の絶対権力を確立。「島津家久」・苛烈と評され、周囲からの信頼も厚かったと伝わる。
島津氏を継いだ忠恒
島津忠恒は、薩摩の戦国大名・島津氏の当主で、後に初代の薩摩藩主となった人物である。父は、鬼島津と恐れられた猛将・島津義弘であった。忠恒は、九州にその武名を轟かせた島津氏を受け継ぎ、戦国から近世へと移りゆく激動の時代に、家の舵取りを担うことになった。後に家久と改名したことでも知られる。
関ヶ原の戦いの後
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、島津氏は西軍に属して敗れた。敵中を正面から突破して退却した父・義弘の「島津の退き口」は名高いが、戦後、島津氏は改易の危機に直面した。忠恒は、この存亡の危機に際して、徳川家康との交渉に臨み、島津氏の所領を守り抜くべく尽力することになった。
島津氏の存続
粘り強い交渉の末、島津氏は西軍に属しながらも本領を安堵されるという、異例の結果を勝ち取った。これは、島津氏の武威と、忠恒らの巧みな交渉の成果であった。改易が相次いだ関ヶ原の戦後処理のなかで、大勢力の島津氏が所領を保ったことは、その後の薩摩藩の礎を築くうえで決定的な意味を持った。
琉球への侵攻
慶長十四年(1609)、島津忠恒は、琉球王国への出兵を命じた。島津軍は琉球へ侵攻し、王都・首里を制圧して琉球王国を服属させた。これにより、琉球は島津氏の強い影響下に置かれることになる。この琉球侵攻は、薩摩藩に大きな利益をもたらす一方、琉球の歴史を大きく変える出来事となった。
薩摩藩の初代藩主
島津忠恒(家久)は、江戸幕府のもとで薩摩藩の初代藩主としてその地位を固めた。関ヶ原後の危機を乗り越えて家を存続させ、琉球をも影響下に置いた忠恒の治世は、幕末に至るまで続く雄藩・薩摩藩の出発点となった。戦国大名・島津氏を近世大名へと導いた忠恒の役割は、薩摩の歴史において極めて大きいものであった。
近世薩摩の出発点
関ヶ原後の危機を乗り越えて島津氏を存続させ、琉球をも影響下に置いた島津忠恒の治世は、幕末に大きな役割を果たす雄藩・薩摩藩の出発点となった。戦国大名から近世大名へと家を導いたその歩みは、時代の大きな転換のなかで薩摩の礎を築いた重要な一時代として、歴史に刻まれている。


-name-300x300.jpg)























