ごとう たかあき
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大村・武雄後藤氏 |
| 大名家 | 大村 |
| 家紋 | 丸に三ツ星 |
| 主武器 | 大太刀 |
| 衣装・甲冑 | 重厚具足 |
| 武将タイプ | 反骨・執念 |
大村純忠の義兄。自身が養子に出された腹いせから生涯にわたり大村純忠と激しい陰謀・合戦を繰り広げた。
肥前の後藤家
貴明は、肥前の武雄を本拠とした後藤家の当主です。
大村家の生まれ
貴明は、肥前の大村家の当主・大村純前の実子として生まれたとされます。
後藤家への養子
しかし、貴明は後藤家に養子に出され、大村家は有馬家から迎えた純忠が継ぐことになりました。
大村純忠
純忠は、のちに日本で最初のキリシタン大名となり、長崎の港を開いたことで知られる人物です。
因縁
自分が継ぐはずだった大村家を純忠が継いだことへの思いが、貴明の生涯を大きく方向づけたと伝えられます。
純忠との争い
貴明は、生涯にわたって純忠と争い続けました。
キリスト教への反発
純忠がキリスト教を保護したことに反発する家臣たちの中には、貴明と結ぶ者もいたとされます。
大村家への攻撃
貴明は、大村家の家中の反対派と結んで、純忠を攻めたこともあったとされます。
龍造寺家との関係
肥前で龍造寺隆信が勢力を広げると、後藤家は龍造寺家と結びつきを強めていきました。
養子を迎える
貴明は、龍造寺隆信の子を養子に迎えたとされます。これによって、後藤家は龍造寺家の一族に組み込まれていきました。
武雄
武雄は、現在の佐賀県武雄市にあたり、温泉の町として知られています。
最期
貴明は1583年に亡くなったとされます。
後藤家のその後
後藤家は、のちに武雄鍋島家として佐賀藩の中で続きました。
肥前の争い
戦国時代の肥前では、龍造寺家・有馬家・大村家・後藤家などが複雑に争っていました。
後藤純明
貴明の養父の後藤純明は、武雄の後藤家の当主でした。貴明はその跡を継ぎ、武雄を治めました。
長崎の開港
純忠は1570年に長崎の港を開き、ポルトガル船を迎えました。長崎はその後、日本の西の玄関として栄えました。
塚崎城
後藤家は、武雄の塚崎城を本拠としていました。
武雄温泉
武雄は古くから温泉の町として知られ、現在の武雄温泉の楼門は国の重要文化財に指定されています。
後藤家信
貴明が養子に迎えた龍造寺隆信の子は、のちに後藤家信と名乗り、武雄の後藤家を継ぎました。
貴明の評価
貴明は、大村家に生まれながら後藤家に養子に出され、大村純忠と生涯にわたって争い続けた武将です。その因縁は、肥前の戦国時代の複雑な人間関係を物語っています。
このイラストについて
甲冑姿の武将が、海に面した山並みと山城を背にした姿です。
海に面した山並みと山城は、後藤家が本拠とした肥前の武雄と、大村湾に面した肥前の風景をイメージしています。強い意志を感じさせる表情は、生涯にわたって大村純忠と争い続けた貴明を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
肥前の大村を本拠とした家。大村純忠は日本で最初のキリシタン大名として知られ、長崎の港をポルトガル船に開いた。1580年には長崎をイエズス会に寄進している。
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