すずき きんしちろう
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 奥平家臣 |
| 大名家 | 奥平 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 軽捷具足 |
| 武将タイプ | 長篠城の使者(伝承) |
鳥居強右衛門とともに長篠城を出た使者と伝わる。雁峰山でのろしを上げるまで強右衛門と行動をともにし、のちに松平忠明に仕えたあと作手に残ったという。
目次
長篠城を出たもう一人の使者
天正3年(1575年)5月、武田勝頼は1万5千の兵で三河の長篠城を囲んだ。城主奥平貞昌(のちの信昌)のもとで城を守った兵は約500人である。長篠城は宇連川と寒狭川に面した断崖の上に築かれていた。
貞昌は援軍を求めるため、家臣の鳥居強右衛門を岡崎へ遣わした。新城市の設楽原歴史資料館によると、このとき強右衛門のほかにもう1人、使者に立った人物がいたと伝えられる。それが鈴木金七郎である。
強右衛門は深夜に城を抜け出し、豊川を泳いで下り、雁峰山でのろしを上げ、作手を抜けて岡崎へ向かった。金七郎は、帰り道に雁峰山でのろしを上げるところまで、強右衛門と同じ行動をとったという。
強右衛門との分かれ道
その後、長篠城に戻ろうとした強右衛門は武田方に捕らえられた。強右衛門は援軍が来ることを城内に伝え、武田との約束を破ったとして磔にされた。金七郎がこの場にいたことを示す資料はない。
5月21日、織田・徳川連合軍は設楽原で武田軍を破った。長篠城は落ちずに持ちこたえ、貞昌は翌年、信長から一字を与えられて信昌と名を改めた。
金七郎はその後、信昌の子・松平忠明に仕えたが、やがて武士をやめ、作手に残ったといわれる。
ゆかりの地
- 長篠城跡(愛知県新城市長篠):金七郎が強右衛門とともに抜け出した城。国の史跡
- 雁峰山(愛知県新城市):強右衛門と金七郎がのろしを上げたと伝わる山
- 新城市設楽原歴史資料館(愛知県新城市):鳥居強右衛門磔図を所蔵し、金七郎についても紹介している

















