いいだ おきひで
| 地域 | 周防国山口(山口県山口市) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大内氏家臣(奉行人) |
| 大名家 | 大内家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 弓 |
| 衣装・甲冑 | 胴丸・腹巻 |
| 武将タイプ | 奉行・行政型 |
飯田興秀は、周防・長門を本拠とした大内氏の家臣である。父の代から大内氏の奉行を務める家に生まれ、博多代官や豊前の寺社奉行として働いた。弓の名手としても知られた。
大内氏の奉行人の家
興秀は永正3年(1506)に生まれた。父の飯田弘秀は、大内政弘・義興の二代に仕えた人物である。主君の命令を伝える奉書をつくる立場にあり、その文書が筥崎宮に残っているとされる。
大内氏は周防国山口を本拠とし、中国地方西部から北九州までを治めた大大名である。博多の港を押さえ、明や朝鮮との貿易でも栄えた。こうした大きな領国を動かすため、奉行人と呼ばれる役人が多く働いていた。飯田氏はその一つで、親子二代にわたって奉行の役目を担った家である。
博多代官と九州での役目
興秀は大内義興のもとで博多代官を務めたとされる。博多は大内氏にとって貿易と九州支配の要の町であった。大内氏は明との勘合貿易を握り、博多の商人とも深く結びついていた。その町を預かる代官は、商人や寺社との交渉もこなす必要があった。
また豊前国(福岡県東部・大分県北部)の寺社奉行としての活動も確かめられている。奉行としての手腕に優れ、九州方面の軍事も任されたという。弓術にもすぐれた武人であった。官途は大炊助・石見守を名乗り、天文19年(1550)には従五位下に叙されたとされる。
大寧寺の変と大内氏の滅亡
義隆の時代、山口は京都から公家や文化人を迎え、「西の京」と呼ばれるほど栄えた。しかし天文20年(1551)、重臣の陶晴賢(隆房)が主君の大内義隆に背いた。義隆は長門の大寧寺で自害し、これを大寧寺の変という。興秀はこのとき陶方に味方したとされる。
陶晴賢は、豊後の大友氏から大友晴英を迎え、大内家の当主とした。晴英は大友義鎮(宗麟)の弟で、母が大内義興の娘であった。天文21年(1552)に山口へ入り、のちに大内義長と名乗った。しかし弘治元年(1555)の厳島の戦いで陶晴賢は毛利元就に敗れて死んだ。毛利氏はそのまま周防・長門へ攻め込んだ。
弘治3年(1557)、義長は長門の長福寺で自害し、大内氏は滅亡した。興秀もこの年に亡くなったとされる。主家とともに激動の時代を終えた人物であった。大内氏の旧領である周防・長門は、こののち毛利氏が治めることになった。
ゆかりの地
- 大内氏館跡(山口県山口市):興秀が仕えた大内氏の本拠
参考にした資料
飯田興秀とは
飯田興秀は、周防の大内家に仕えた奉行人の家の武将です。
大内家の奉行人
飯田家は、大内家の政治の実務を担う奉行人の家でした。
博多代官
興秀は、筑前の博多の代官を務め、九州での大内家の支配を担ったとされます。
博多の町
博多は、大陸との交易で栄えた港町で、大内家にとって大事な土地でした。
評価
興秀は、大内家の奉行人として博多などで政務を担い、大内家の繁栄を支えた人物です。
このイラストについて
このイラストは、船の浮かぶ港を背に、数珠を手にした年配の興秀を描いています。
白髪と落ち着いた表情で、政務を担った奉行人の姿を表しました。
港と大きな船は、大内家が押さえた博多の港をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
周防・長門を本拠とした守護大名で、百済の王族の子孫と称した。大内義興は前将軍足利義稙を擁して上洛し、管領代としておよそ10年にわたって京都の政治を動かした。
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