岡本頼氏 | 相良家臣、川上久朗を討った槍の名手

岡本頼氏のイラスト(イメージ)

おかもと よりうじ

地域肥後(球磨)
所属勢力・属性相良家臣
大名家相良家
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ武勇型

岡本頼氏は、肥後人吉の相良氏に仕えた武将である。槍の名手として知られ、永禄11年(1568)の島津氏との戦いで敵将の川上久朗を討ったと伝わる。自らの戦いを記した『岡本頼氏戦場日記』を残したとされる。

目次

永里・岩本・岡本と変わった家

頼氏は天文6年(1537)に生まれたとされる。父は岩本隆吉である。先祖は菊池氏の流れで、球磨郡永里の地頭職にあったことから永里氏を名乗ったという。

その後、相良前続のころに原田岩本に水田を与えられ、岩本氏を名乗るようになったと伝わる。頼氏は主君から深水の姓を与えられて深水主馬と称し、のちに岡本の領主となったことから岡本を名乗ったとされる。

相良氏と島津氏の争い

相良氏は肥後南部の球磨郡を治めた大名で、18代の相良義陽(頼房)のころには勢力を広げていた。そのころ、薩摩の島津氏と、大口(現在の鹿児島県伊佐市)をめぐって激しく争った。

永禄9年(1566)から12年(1569)にかけて、相良氏は菱刈氏と手を結び、大口城を拠点に島津氏と戦った。

大口は肥後と薩摩の境に近く、両家にとってゆずれない土地であった。相良氏はここを足がかりに、薩摩北部への影響を強めようとした。

川上久朗を討つ

頼氏は弘治元年(1555)に初陣し、大小19の戦いに出て、31か所の傷を負ったと伝わる。槍にすぐれ、和歌の道にも通じていたという。

永禄11年(1568)の島津氏との戦いで、頼氏は大口城を守り、敵将の川上久朗を討ち取ったとされる。川上久朗は島津家の重臣で、この戦いで重い傷を負い、3日後に亡くなったと伝わる。島津方にとって大きな痛手であった。

島津氏の配下として、そして晩年

やがて相良氏は島津氏に従うことになった。その後、頼氏は菱刈隆豊らとともに島津義弘に望まれ、大友氏攻めに出陣したと伝わる。かつての敵に武勇を認められたことになる。

頼氏は69歳で剃髪し、慶長11年(1606)11月13日に病没したとされる。法名は悟了永頓という。相良氏は江戸時代も人吉藩主として幕末まで続いた。頼氏が残した戦場日記は、相良氏と島津氏の戦いを知る手がかりとされる。

頼氏は、相良氏の独立した時代から島津氏の配下となった時代まで、長く戦場に立ち続けた武将であった。

ゆかりの地

  • 大口城跡(鹿児島県伊佐市):相良・菱刈勢と島津勢が争った城。頼氏が守ったと伝わる

参考にした資料

岡本頼氏とは

岡本頼氏は、肥後の相良家に仕えた武将で、のちに島津家の配下となりました。名字を何度か変えたことで知られます。

相良家の家臣

頼氏は、肥後南部の人吉を本拠とした相良家に仕えました。相良家は、島津家と長く争いました。

川上久朗

島津家の重臣・川上久朗は、相良方との戦いで傷を負い、命を落としたとされます。頼氏は、その相手として名が伝わっています。

島津家のもとで

相良家が島津家に降ったのち、頼氏も島津家の配下として生きることになりました。

評価

頼氏は、相良家と島津家の争いの中で戦い、時代の流れとともに主家の立場を変えながら生きた武将です。

このイラストについて

このイラストは、山城と陣を背に、長刀を構える頼氏を描いています。

風になびく髪と鋭い目で、戦場で敵将と渡り合った武将の気迫を表しました。

霧の立つ山々と城は、相良家と島津家が争った肥後南部の山あいをイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

相良家

肥後南部の人吉を本拠とした家。鎌倉時代に遠江から地頭として下ったのが始まりとされ、戦国時代を通じて同じ土地を治め続けた。

相良家の歴史と武将一覧を見る →

主家

相良長毎のイラスト(イメージ)相良義陽のイラスト(イメージ)

家臣団

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