たけたま よしつな
| 地域 | 甲信越 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 上杉家 |
| 大名家 | 上杉家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・武骨 |
竹俣慶綱(たけのまた よしつな)は上杉謙信・景勝に仕えた越後の武将である。揚北衆の竹俣氏の出身で、謙信の代から側近として仕えた。天正10年(1582年)、織田軍に囲まれた越中魚津城を守り、落城の際にほかの城将とともに自刃した。
目次
揚北衆・竹俣氏
竹俣氏は越後北部の阿賀野川以北に根を張った国人衆「揚北衆(あがきたしゅう)」の一家で、加地氏の一族とされる。本拠は竹俣(現在の新潟県新発田市)で、竹俣城跡が残る。慶綱の生年は分かっていない。
慶綱は上杉謙信の代からの側近とされる。永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いにも従い、乗馬や武具を失いながら戦って賞されたと伝えられる。
御館の乱と景勝
天正6年(1578年)に謙信が没すると、養子の景勝と景虎が家督を争った(御館の乱)。慶綱は景勝を支持し、新発田長敦・斎藤朝信とともに武田勝頼との交渉にあたったとされる。この交渉で景勝は勝頼と結び、乱を有利に進めた。
乱は天正7年(1579年)に景虎が自害して景勝の勝利に終わった。その後、景勝は越中・信濃・上野の三方から織田軍の圧力を受けることになる。
魚津城の籠城と最期
天正10年(1582年)3月、柴田勝家らの織田軍が越中魚津城を囲んだ。慶綱は中条景泰・吉江宗信・山本寺孝長らとともに城を守った。景勝は救援に出て天神山城に陣を構えたが、織田軍が信濃・上野方面から越後に迫ったため、5月末に兵を引いた。
孤立した魚津城は6月3日に落城し、城将たちは自刃した。本能寺の変で織田信長が死んだ翌日である。魚津市の観光案内は、12人の守将が耳に穴を開けて名を書いた木札を結び付け、自刃したと伝える。
ゆかりの地
- 魚津城跡(富山県魚津市):慶綱らが籠城し、天正10年に落城した
- 竹俣城跡(新潟県新発田市):竹俣氏の本拠とされる山城










































