はたの ひでたか
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 丹波波多野氏 |
| 大名家 | 丹波波多野氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 軽捷具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・悲壮 |
波多野秀尚は丹波八上城主・波多野秀治の弟で、諱は秀直とも書く。天正6年(1578)から兄とともに八上城に籠城し、明智光秀の包囲に1年以上耐えた。天正7年(1579)の落城後、兄とともに安土へ送られ処刑された。
目次
丹波波多野氏と秀尚
波多野氏は丹波国多紀郡の八上城(丹波篠山市)を本拠とした国人である。15世紀末に波多野元清が台頭し、細川管領家の有力な家臣として勢力を広げた。
秀尚は波多野元秀の次男とされ、兄に秀治がいる。諱は「秀直」とも書かれる。生年は不詳である。
織田氏からの離反
永禄11年(1568)の織田信長上洛後、波多野氏はいったん信長に従った。天正3年(1575)、信長は明智光秀に丹波攻略を命じる。
天正4年(1576)1月、光秀が赤井氏の黒井城を攻めているさなかに、波多野氏は織田方から離反した。光秀は撤退を余儀なくされ、丹波攻略は長期戦となった。
八上城の籠城
天正6年(1578)3月、秀尚は兄秀治とともに八上城に籠もった。八上城は標高約460mの高城山に築かれた山城で、城域は東西約3kmに及ぶ。
光秀は城の周囲に砦や柵を連ねて包囲し、兵糧攻めを行った。光秀の書状には、波多野兄弟を城から逃さないよう指示する内容が残る。籠城は1年以上続いた。
落城と最期
天正7年(1579)6月1日、八上城は落城した。秀尚は兄とともに捕らえられ、安土へ送られた。同年6月8日、兄弟は磔刑に処された。秀尚の辞世の句が伝わる。
落城の際、光秀が自分の母を人質に出して秀治を降伏させたという話がある。これは後世の軍記物に見える話で、研究者の間では疑問視されている。
ゆかりの地
- 八上城跡(丹波篠山市):波多野氏の本拠。明智光秀の丹波攻略の主戦場で、国史跡




















