はしば ひでかつ(おつぎ)
| 地域 | 近畿(丹波)・尾張出身 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田信長の四男、羽柴秀吉の養子。丹波亀山城主 |
| 大名家 | 織田家 → 羽柴家 |
| 家紋 | 不明 |
| 主武器 | 采配 |
| 衣装・甲冑 | 若殿の当世具足 |
| 武将タイプ | 天下人の子・悲運の若武者 |
羽柴秀勝(はしば ひでかつ)は、織田信長の四男として生まれ、幼いころに羽柴秀吉の養子となった若い武将です。幼名から「於次(おつぎ)秀勝」と呼ばれます。本能寺の変のあとは信長の葬儀で喪主をつとめ、明智光秀の旧領だった丹波を与えられて亀山城主となりました。子のいない秀吉にとっては大切な跡継ぎ候補でしたが、天正13年(1585)、わずか18歳で病に倒れました。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では柊木陽太さんが演じています。
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羽柴秀勝(於次)の生涯 年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 永禄11年(1568) | 織田信長の四男として生まれる(五男とする説もある) |
| 天正4年(1576)ごろ | 子のいない羽柴秀吉の養子となり、秀勝と名のる |
| 天正10年(1582) | 秀吉の中国攻めに加わる。6月、本能寺の変で父・信長が討たれる |
| 同年6月 | 山崎の戦い。秀吉とともに明智光秀を破る |
| 同年6月 | 清洲会議。光秀の旧領・丹波を与えられ、亀山城主となる |
| 同年10月 | 京都・大徳寺で行われた信長の葬儀で、喪主をつとめる |
| 天正11年(1583) | 賤ヶ岳の戦いに出陣する |
| 天正12年(1584) | 小牧・長久手の戦いに出陣する |
| 天正13年(1585) | 毛利輝元の養女と婚約する。秋ごろから病に伏す |
| 同年12月10日 | 丹波亀山城で亡くなる。18歳 |
信長の子、秀吉の養子に
秀勝は永禄11年(1568)、織田信長の四男として生まれました。五男とする説もあります。そのころ信長の家臣だった羽柴秀吉には、長く子がいませんでした。秀吉は長浜城主だった時代に男の子をもうけたともいわれますが、幼くして亡くなったと伝えられます(秀吉の“幻の長男”石松丸秀勝)。そこで秀吉は、主君・信長の子を養子にもらいうけました。それが於次丸、のちの秀勝です。天正4年(1576)ごろのことと考えられています。
主君の子を跡継ぎに迎えることは、秀吉にとって織田家とのつながりを強める意味もありました。秀勝は、のちに秀吉の姉の子・小吉にも同じ「秀勝」の名が受け継がれたため、区別して「於次秀勝」と呼ばれています。
本能寺の変と信長の葬儀
天正10年(1582)、秀勝は秀吉の中国攻めに加わりました。その最中の6月2日、父・信長が京都の本能寺で明智光秀に討たれます(本能寺の変)。秀吉は急いで京へ引き返し、秀勝もともに山崎の戦いで光秀を破りました。
その後の清洲会議で、秀勝は光秀の旧領だった丹波を与えられ、亀山城(京都府亀岡市)の城主となりました。同じ年の10月、秀吉は京都の大徳寺で信長の盛大な葬儀を行います。このとき喪主をつとめたのが秀勝でした。信長の子であり、秀吉の跡継ぎでもある秀勝を前に立てることで、秀吉は自分こそが信長の後継者であることを世に示したのです。
秀吉の跡継ぎとして
秀勝はその後も、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに出陣し、秀吉の跡継ぎとして重んじられました。天正13年(1585)には、中国地方の大大名・毛利輝元の養女と婚約しています。秀吉と毛利家の結びつきを深めるための縁組みでした。
18歳の若さで ― 最期
しかしこの年の秋ごろから、秀勝は重い病に伏します。病は回復せず、天正13年(1585)12月10日、丹波亀山城で亡くなりました。18歳でした。病名は記録に残っておらず、死因ははっきりしません。くわしくは於次秀勝はこのあとどうなる?死因・享年18の最期で解説しています。
秀勝を失った秀吉は、その後、姉・ともの子である小吉に「秀勝」の名を継がせました(豊臣秀勝(小吉))。秀吉に実子の鶴松が生まれるのは、秀勝の死から4年後のことです。もし秀勝が生きていれば、豊臣家の跡継ぎ問題も、のちの豊臣秀次の運命も、大きく変わっていたかもしれません。
評価
秀勝は、信長の子として生まれ、秀吉の跡継ぎとして育てられた、二人の天下人をつなぐ存在でした。信長の葬儀で喪主をつとめたことは、秀吉が天下人への道を歩みはじめる大きな節目となりました。18歳という若さで世を去ったため、自分の力で大きな功績を残すことはできませんでしたが、その短い生涯は、豊臣政権の始まりと深く結びついています。
ゆかりの地
- 亀山城跡(京都府亀岡市):秀勝が城主をつとめ、亡くなった城。もとは明智光秀が築いた
- 大徳寺 総見院(京都市北区):秀吉が信長の菩提をとむらうために建てた寺。秀勝が喪主をつとめた信長の葬儀は大徳寺で行われた
このイラストについて
このイラストは、丹波の山々と山城を背に、赤と金の華やかな甲冑をまとった若き日の羽柴秀勝を描いています。整った顔立ちに少し影のあるまなざしで、信長の子として生まれ、秀吉の跡継ぎとして期待されながら18歳で世を去った秀勝をイメージしました。背景の山城は、秀勝が城主をつとめた丹波亀山城をイメージしたものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。













































