おだ のぶかつ
| 地域 | 東海(尾張) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田弾正忠家(末森城主) |
| 大名家 | 織田氏 |
| 家紋 | 織田木瓜 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 直垂・具足 |
| 武将タイプ | 兄と争った弟 |
織田信勝(おだ のぶかつ)は、織田信長と同じ母(土田御前)から生まれた弟である。一般には「信行」の名で知られるが、同じ時代の文書では「信勝」などと書かれている。父・織田信秀の死後、柴田勝家や林秀貞らに支えられて兄と家督を争ったが敗れ、弘治3年(1557年)ごろ、清須城で兄の手の者に討たれた。
3行でわかる織田信勝
- 信長の同母弟。父の居城だった末森城を受け継ぎ、柴田勝家らを家臣とした
- 弘治2年(1556年)の稲生の戦いで信長に敗れたが、母のとりなしで許された
- ふたたび謀反を企てたとして、弘治3年(1557年)ごろ清須城に呼び出されて殺された
目次
兄と並び立った弟
父・信秀が亡くなったあと、信長は那古野城、信勝は末森城を本拠とした。礼儀正しくふるまう信勝を、家臣の中には「うつけ」と呼ばれた信長より当主にふさわしいと見る者もいたと伝わる。柴田勝家や林秀貞らが信勝を支えた。
稲生の戦い
弘治2年(1556年)、信勝方は信長と戦ったが、稲生の戦いで敗れた。母の土田御前のとりなしで信勝は許され、柴田勝家もこのあと信長に従うようになった。
二度目の謀反と死
しかし信勝はふたたび兄に背こうとしたとされ、それを知った柴田勝家が信長に知らせた。弘治3年(1557年)ごろ(永禄元年=1558年とする説もある)、信長は病気と偽って信勝を清須城に呼び出し、殺させた。『信長公記』では河尻秀隆らが手を下したとされる。
信勝の子・信澄は、のちに信長に重く用いられ、明智光秀の娘を妻とした。弟と争ったこの経験が、信長が一門に大きな力を持たせなかった理由の一つと考えられている(「信長の弟たちと秀吉の弟・秀長を比較」参照)。
織田信勝をめぐる人物
- 兄:織田信長
- 母:土田御前
- 家臣:柴田勝家/林秀貞
- 子:織田信澄
- 弟:織田信包/織田長益
ゆかりの地
- 末森城跡(城山八幡宮)(愛知県名古屋市千種区):信勝の居城の跡
- 稲生原古戦場(愛知県名古屋市西区):稲生の戦いの舞台とされる地










































