きし のぶふさ
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 斎藤家臣 |
| 大名家 | 斎藤 |
| 家紋 | 丸に立ち沢瀉 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 軽捷具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・悲壮 |
岸信周の長男。堂洞城攻防戦において織田軍相手に一歩も引かず、城門前で壮絶な討死を遂げた。
岸信房とは
岸信房は、美濃の堂洞城主・岸信周の長男とされる武将です。生年など、くわしいことははっきりしていません。
中濃という土地
堂洞城のあった中濃は、今の岐阜県の中部、加茂郡や関のあたりです。木曽川と長良川の間の山がちな土地で、多くの国衆が城を構えていました。
信長の美濃攻め
信長は、斎藤龍興の美濃を手に入れるため、まず中濃の国衆を従えようとしました。多くの国衆が信長に降る中で、岸氏は抵抗を続けました。
堂洞城
堂洞城は、今の岐阜県富加町にあった山城です。周りの国衆が織田方に寝返る中で、斎藤方の城として孤立していきました。
降伏のすすめ
信長は、堂洞城にも降伏をすすめたと伝えられます。しかし岸信周はこれを断り、城に籠もって戦う道を選びました。
人質の伝え
このとき、岸家の人質をめぐる悲しい話が伝わっていますが、細かいところは後の時代の記録によるもので、諸説があります。
堂洞城の戦い
永禄8年(1565年)、織田軍は堂洞城を攻めました。城兵は激しく抵抗しましたが、火をかけられて城は落ちたとされます。
信房の最期
信房は、城門の前で最後まで戦い、討死したと伝えられます。父の信周も、この戦いで城とともに最期を迎えました。
太田牛一の記録
堂洞城の戦いのようすは、信長の家臣・太田牛一が書いた『信長公記』にも記されています。牛一自身もこの戦いに加わっていたとされます。
美濃の平定
堂洞城の落城ののち、中濃の国衆は次々に信長に降りました。永禄10年(1567年)、信長は稲葉山城を落として美濃を手に入れました。
岐阜という名
信長は稲葉山城の城下を「岐阜」と名づけ、ここを本拠としました。
斎藤龍興
龍興は、祖父の道三、父の義龍の跡を継いだ斎藤家の当主です。若くして家を継ぎ、家臣の離反に苦しみました。
加治田城の佐藤氏
堂洞城の近くの加治田城主・佐藤忠能は、早くに信長に味方しました。堂洞城の岸氏とは、敵味方に分かれて戦うことになりました。
関の刀鍛冶
堂洞城に近い関は、刀鍛冶の町として知られます。戦国時代には、多くの刀がここで作られました。
富加町
堂洞城の跡がある富加町には、戦国時代の山城の跡がいくつか残っています。
評価
信房は、周りが次々と織田方に降る中で、父とともに最後まで斎藤方として戦った武将です。その最期は、美濃攻めの激しさを伝えています。
このイラストについて
このイラストは、燃え上がる城門の前で、刀を構える信房を描いています。
若々しい顔つきと、敵をにらむ鋭い目で、城門の前で最後まで戦ったと伝わる若武者の気迫を表しました。
赤く燃える城と煙は、織田軍に攻められた堂洞城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
美濃の戦国大名。斎藤道三(利政)は守護の土岐氏を追い出して美濃を手に入れたが、1556年の長良川の戦いで子の義龍に討たれた。
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