まえだ としなが
| 地域 | 北陸(加賀・越中) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 前田氏(加賀藩初代藩主) |
| 大名家 | 前田家 |
| 家紋 | 加賀梅鉢 |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 家を守った二代目 |
前田利長(まえだ としなが)は、前田利家とまつの嫡男で、加賀藩の初代藩主とされる大名である。永禄5年(1562年)に生まれ、慶長19年(1614年)に53歳で亡くなった。父の死後、徳川家康との戦いを避けるため母のまつを江戸へ人質に出し、関ヶ原の戦いのあと「加賀百万石」と呼ばれる大きな領地を築いた。
3行でわかる前田利長
- 前田利家とまつの嫡男で、織田信長の娘・永姫を妻とした
- 父の死後、家康に謀反を疑われたが、母まつを人質に出して戦いを避けた
- 関ヶ原で東軍につき、加賀・能登・越中の大領を得て「加賀百万石」の基礎を築いた
目次
信長の娘婿
利長は尾張の荒子で、前田利家とまつの長男として生まれた。天正9年(1581年)ごろ、織田信長の娘・永姫を妻にむかえている。本能寺の変のときは、近江の瀬田にいて難をのがれた。
その後は父とともに豊臣秀吉に仕え、越中などの領地を与えられた。
家康との危機
慶長4年(1599年)に父の利家が亡くなると、利長は加賀に帰国した。すると家康は、利長が謀反をたくらんでいると疑い、加賀を攻める構えを見せた(加賀征伐)。
利長は戦いを避けるため、重臣の横山長知を送って弁明し、母のまつを人質として江戸へ送ることを受け入れた。こうして前田家は徳川家に従う道を選んだ。
関ヶ原と加賀百万石
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、利長は東軍として北陸の西軍と戦い、浅井畷の戦いなどを経て、戦後に加賀・能登・越中の三か国、約120万石の大大名となった。これが「加賀百万石」の始まりである。
慶長10年(1605年)、利長は家督を異母弟の利常にゆずって越中の富山城に隠居し、のちに高岡城を築いて移った。慶長19年(1614年)、高岡で亡くなった。
前田利長をめぐる人物
- 父:前田利家
- 母:まつ(芳春院)
- 妻:永姫(織田信長の娘)
- 跡を継いだ弟:前田利常
- 関ヶ原で戦った相手:丹羽長重
ゆかりの地
- 高岡古城公園(高岡城跡)(富山県高岡市):利長が晩年に築いた城
- 瑞龍寺(富山県高岡市):利長の菩提寺。国宝
- 前田利長墓所(富山県高岡市):利長の大きな墓所


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