稲葉一鉄 | 西美濃三人衆の筆頭。織田信長・豊臣秀吉に仕え、曲がったことを許さぬ強烈な骨身で異彩を放った

いなば いってつ

地域東海
所属勢力・属性西美濃三人衆
大名家西美濃三人衆
家紋丸に三ツツキ
主武器太刀・数珠
衣装・甲冑重厚具足
武将タイプ「頑固一徹」・頑強

西美濃三人衆の筆頭。織田信長・豊臣秀吉に仕え、曲がったことを許さぬ強烈な骨身で異彩を放った。「頑固一徹」・頑強と評され、周囲からの信頼も厚かったと伝わる。

目次

美濃の稲葉氏

一鉄は美濃の稲葉氏の出身で、名は良通、一鉄はのちの号です。曽根城を本拠とし、美濃西部に勢力を持つ有力な国人でした。

僧から武将へ

一鉄は若い頃、寺に入って僧となっていました。しかし父や兄たちが戦で相次いで亡くなったため、寺を出て家督を継いだと伝えられます。

西美濃三人衆

一鉄は斎藤道三・義龍・龍興の三代に仕えました。同じ西美濃の安藤守就・氏家卜全とともに「西美濃三人衆」と呼ばれ、斎藤家の中で大きな力を持つ存在でした。

斎藤家の衰え

道三の死後、義龍は美濃をよくまとめましたが、1561年に急死します。跡を継いだ龍興はまだ若く、家臣たちの心は次第に離れていきました。1564年には竹中半兵衛がわずかな手勢で稲葉山城を乗っ取る事件も起き、斎藤家の弱体ぶりが明らかになりました。

織田信長への内応

1567年、西美濃三人衆はそろって織田信長に味方しました。これによって斎藤家の守りは大きく崩れ、信長は稲葉山城を攻め落として美濃を手に入れました。

姉川の戦いでの活躍

1570年の姉川の戦いでは、一鉄は徳川家康の軍勢を助けて朝倉軍と戦い、活躍したと伝えられます。信長はその功を高く評価したといいます。

信長の天下統一を支える

一鉄はその後も、長島一向一揆との戦いや長篠の戦いなど、信長の主要な戦いに加わりました。美濃の有力国人として、織田家の軍事を支え続けました。

「頑固一徹」の由来

一鉄は信念を曲げない頑固な性格で知られ、「頑固一徹」という言葉は一鉄の名に由来するという説があります。ただしこれは俗説の一つで、確かな根拠があるわけではありません。

茶席の逸話

信長が一鉄を茶席に招いて討とうとした際、一鉄が床の間の漢詩の意味を見事に読み解き、自らの潔白を語ったため、信長が許したという逸話が伝わります。江戸時代の書物に見える話で、一鉄の教養の高さを表すものとして知られています。

斎藤利三との関係

一鉄の家臣だった斎藤利三は、のちに明智光秀に仕えるようになり、一鉄との間で争いが起こりました。利三は本能寺の変で光秀の重臣として重要な役割を果たしています。

春日局とのつながり

利三の娘で、のちに徳川家光の乳母となった春日局は、母方を通じて稲葉家とつながりがあります。春日局の夫となった稲葉正成も、稲葉家の一族です。

晩年と最期

本能寺の変の後、一鉄は羽柴秀吉に従いました。1589年に亡くなるまで長く生き、斎藤・織田・豊臣という三つの時代を見届けた美濃の重鎮でした。

稲葉家のその後

一鉄の子の貞通は、関ヶ原の戦いの後に豊後臼杵へ移り、臼杵藩稲葉家として明治まで続きました。一鉄の血筋は、江戸時代を通じて大名家として残ったのです。

このイラストについて

白い髪とひげをたくわえた老将が、甲冑に赤い陣羽織をまとい、館の中で遠くを見つめる姿です。

一鉄は70代半ばまで生き、斎藤・織田・豊臣の三つの時代を見届けた武将でした。白髪の老将として描いたのはそのためです。まっすぐ前を見つめる表情は、「頑固一徹」の由来ともいわれる、信念を曲げない一鉄の人柄を表しています。甲冑の紋や館は想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

斎藤家

美濃の戦国大名。斎藤道三(利政)は守護の土岐氏を追い出して美濃を手に入れたが、1556年の長良川の戦いで子の義龍に討たれた。

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主家

家臣団

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