佐伯惟教 | 伊予退去から帰参し、耳川で討死した大友家の加判衆

佐伯惟教のイラスト(イメージ)

さえき これのり

地域九州
所属勢力・属性大友家臣
大名家大友
家紋―
主武器太刀・采配
衣装・甲冑重臣具足
武将タイプ老練・勇猛

豊後大友氏の家臣で、佐伯氏の当主。栂牟礼城を居城とした。一族とともに伊予へ退いたのち、永禄12年(1569)ごろ帰参し、加判衆として大友氏の政権中枢に加わった。天正6年(1578)の耳川の戦いで、子とともに戦死した。

目次

佐伯氏と栂牟礼城

佐伯惟教(さいき これのり)は戦国時代の武将で、豊後大友氏の家臣である。豊後の大神(おおが)氏の流れをくむ佐伯氏の当主で、海部郡の栂牟礼城(大分県佐伯市)を居城とした。

佐伯氏は豊後南部の佐伯を本拠とした国衆である。国衆とは、一定の地域を治めた在地の領主をいう。佐伯は豊後水道に面した土地で、佐伯氏は水軍の力を持っていたとされる。

伊予への退去と帰参

惟教は大友義鎮(宗麟)の時代に、謀反に関わったとして一族を率いて伊予へ逃れた。その時期は、天文19年(1550)の騒動(二階崩れの変)に関わるものとする見方と、弘治2年(1556)とする説がある。伊予では西園寺氏のもとに身を寄せたとされる。二階崩れの変とは、天文19年に大友家で起きた家督をめぐる内紛で、これを経て義鎮が家督を継いだ。

永禄12年(1569)ごろ、惟教は佐伯への復帰を許された。大友氏は当時、北九州で毛利氏と争っており、水軍の力を必要としていたためとされる。惟教は間もなく加判衆に加わった。加判衆とは、大友氏の重要な文書に連名で署名する重臣で、政権の中枢を担った。元亀3年(1572)ごろには、一条兼定を助けるため伊予へ出兵したとされる。

耳川の戦いでの戦死

天正6年(1578)、大友氏は日向へ大軍を送り、島津氏と戦った。島津氏に追われた日向の伊東氏を助けることが、出兵の名目であった。惟教は先陣の一人として従軍した。大友軍は高城(宮崎県木城町)を囲んだが、高城川原の戦い(耳川の戦い)で大敗した。この敗北で大友氏は多くの重臣を失い、勢力を大きく落とした。惟教もこの戦いで、子の惟真・鎮忠とともに戦死した。

佐伯氏の家督は、孫の惟定が継いだとされる。

ゆかりの地

  • 栂牟礼城跡(大分県佐伯市):佐伯氏の居城跡

参考にした資料

豊後の佐伯家

惟教は、豊後の佐伯を本拠とした佐伯家の当主です。佐伯家は大友家の一族とされる豊後の有力な国衆でした。

大友家の加判衆

惟教は大友家の重臣として、加判衆と呼ばれる役職に就き、大友家の政治に関わりました。

伊予への退去

1556年、大友家の中で起きた争いに関わったとして、惟教は伊予に退去しました。

伊予での日々

惟教は伊予の西園寺家などを頼って、しばらく伊予で過ごしたとされます。

大友家への帰参

その後、惟教は大友宗麟に許されて豊後に戻り、再び大友家の重臣として仕えました。

毛利家との戦い

惟教は、大友家が北九州で毛利家と争った戦いにも加わったとされます。

伊予への出兵

惟教は伊予の事情に通じていたこともあり、大友家の伊予への出兵にも関わったと伝えられます。

日向への出陣

1578年、大友家は日向に大軍を送り、島津家と戦いました。惟教もこの軍に加わりました。

耳川の戦い

大友軍は日向の耳川で島津軍に大敗しました。

討死

惟教はこの耳川の戦いで、子とともに討死しました。

大友家の痛手

耳川の戦いでは、惟教のほか、多くの大友家の重臣が命を落としました。大友家はこの敗戦から立ち直ることができませんでした。

佐伯の地

佐伯家の本拠だった佐伯は、現在の大分県佐伯市にあたり、豊後水道に面した港町です。

佐伯家のその後

惟教の死後、佐伯家は大友家の衰退とともに力を失っていきました。

退去と帰参の生涯

惟教は、一度は主家を離れながら再び戻り、最後は主家のために命を落とした武将でした。

惟教の評価

惟教は、大友家の重臣として加判衆を務め、伊予への退去と帰参を経て、耳川の戦いで討死した武将です。その生涯は、大友家の盛衰と深く結びついています。

このイラストについて

白髪まじりの老将が甲冑姿で腰を下ろし、港と城を見下ろす高台を背にした姿です。

背景の港と城は、惟教の本拠であった豊後の佐伯をイメージしています。佐伯は豊後水道に面した港町で、海とのつながりの深い土地でした。年長の落ち着いた姿は、主家を離れて戻った惟教の歩んだ長い道のりを表しています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

大友家

鎌倉時代から豊後の守護を務めた家。1550年、当主の大友義鑑が家臣に襲われる「二階崩れの変」で死去し、子の義鎮(宗麟)が家督を継いだ。宗麟は豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職を手に入れ、北九州に一大勢力を築いた。

大友家の歴史と武将一覧を見る →

主家

家臣団

一万田鑑実のイラスト(イメージ)佐伯惟真のイラスト(イメージ)入田親誠のイラスト(イメージ)利光宗魚のイラスト(イメージ)吉岡妙林尼のイラスト(イメージ)吉岡長増のイラスト(イメージ)吉弘統幸のイラスト(イメージ)吉弘鎮信のイラスト(イメージ)吉弘鑑理のイラスト(イメージ)問註所統景のイラスト(イメージ)問註所鑑景のイラスト(イメージ)寒田親将のイラスト(イメージ)志賀親守のイラスト(イメージ)志賀親次のイラスト(イメージ)斎藤鎮実のイラスト(イメージ)木付鎮秀のイラスト(イメージ)朽網鑑康のイラスト(イメージ)柴田礼能のイラスト(イメージ)田北鎮周のイラスト(イメージ)田北鑑重のイラスト(イメージ)立花道雪臼杵鑑速のイラスト(イメージ)角隈石宗のイラスト(イメージ)高橋紹運高橋鑑種のイラスト(イメージ)
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次