小堀正次 | 秀長の家臣として検地を担い、のちに備中松山藩主となった近江の実務家。小堀遠州の父

小堀正次

こぼり まさつぐ

地域近江・大和・備中
所属勢力・属性磯野員昌→豊臣秀長→豊臣秀吉→徳川家
大名家豊臣家
家紋―
主武器刀
衣装・甲冑肩衣・袴
武将タイプ奉行・実務家

小堀正次は、近江出身の武将です。豊臣秀長に仕えて紀伊・大和の検地などの実務を担い、のちに秀吉、さらに徳川家康に仕えて備中松山の初代藩主となりました。茶人・作庭家として名高い小堀遠州(政一)の父としても知られます。

目次

近江の小堀村に生まれる

正次は、天文9年(1540年)、近江国坂田郡小堀村(いまの滋賀県長浜市)に、垣見正房の次男として生まれたとされます。のちに小堀を名字としました。

磯野員昌から秀長へ

正次は、はじめ浅井家の重臣・磯野員昌に仕えました。その後、秀長の家臣となりました。

検地の代官として

秀長のもとで、正次は紀伊や大和の検地の代官を務めました。検地は田畑の広さや収穫量を調べて年貢を決める大切な仕事です。正次ははじめ千石でしたが、のちに五千石に加増されたとされます。秀長の領国経営を、数字と実務の面から支えた家臣でした。

秀長の死後

天正19年(1591年)に秀長が亡くなり、跡を継いだ秀保も早くに亡くなると、正次は秀吉の直臣となりました。

関ヶ原と備中松山

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、正次は徳川方につきました。戦いののち、備中松山に一万四千石を与えられ、備中にある徳川家の直轄領の管理も任されました。備中での検地でも、大きな功績を挙げたと伝わります。翌年には伏見城の作事奉行も務めました。

子・小堀遠州

正次の子の政一は、のちに小堀遠州と呼ばれ、茶人として、また城や庭園づくりの名手として名を残しました。検地や作事に通じた父の実務の力は、子へと受け継がれたともいえます。

秀長の家臣団と近江

秀長の家臣には、正次のほか、横浜一庵や羽田正親、藤堂高虎など、近江出身の者が多くいました。近江は、浅井家の滅亡後に羽柴家が治めた土地で、そこから多くの人材が羽柴家に加わりました。

検地とは

検地は、村ごとに田畑の広さや土地の良し悪しを調べ、取れる米の量(石高)を決める仕事です。秀吉の時代には全国で検地が行われ、太閤検地と呼ばれました。正次のような実務にくわしい家臣が、その現場を支えました。

正次の死

正次は、慶長9年(1604年)に亡くなったとされます。跡は子の政一(遠州)が継ぎました。

評価

正次は、合戦で名を上げた武将ではありませんが、検地や領地の管理という実務で主君を支え、秀長・秀吉・家康の三人のもとで重く用いられた人物です。

ゆかりの地

  • 小堀村(滋賀県長浜市):正次の生まれた地
  • 大和郡山城跡(奈良県大和郡山市):秀長の居城。正次が仕えた大和の拠点
  • 備中松山城(岡山県高梁市):正次が初代藩主となった備中松山の城

このイラストについて

このイラストは、田んぼを測る人々を背に、帳面と筆を手にした正次を描いています。

白髪まじりの穏やかな顔つきで、検地の実務を担った落ち着いた家臣の姿を表しました。

縄と竿で田を測る人々は、正次が代官を務めた検地の様子をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

参考にした資料

豊臣家

尾張の百姓の家に生まれたとされる羽柴(豊臣)秀吉が、織田信長に仕えて一代で築いた家。本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議と賤ヶ岳の戦いを経て織田家中の主導権を握った。1585年に関白となり、翌年には朝廷から「豊臣」の姓を賜っている。

豊臣家の歴史と武将一覧を見る →

主家

家臣団

一柳直家のイラスト(イメージ)一柳直末一柳直盛のイラスト(イメージ)中村一氏の肖像イラスト前田玄以加藤貞泰のイラスト(イメージ)北政所吉川平介増田長盛宮部長房小川下野守小川祐忠小野木重勝のイラスト(イメージ)新庄直頼木下家定横浜一庵淀殿片桐且元竹中半兵衛羽田正親豊臣秀長 イラスト辻重勝 イラスト野々村幸政長束正家黒田官兵衛
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次