ろっかく よしかた
| 地域 | 近畿(南近江) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 六角氏(近江守護) |
| 大名家 | 六角家(佐々木氏) |
| 家紋 | 隅立て四つ目結 |
| 主武器 | ―(采配) |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 名門守護 |
六角義賢(ろっかく よしかた)は、南近江の守護・六角家の当主で、出家後は承禎(じょうてい)と名のった。大永元年(1521年)に生まれ、慶長3年(1598年)に78歳で亡くなった。観音寺城を本拠に室町幕府を支えたが、永禄11年(1568年)、織田信長の上洛軍に敗れて城を追われた。
3行でわかる六角義賢
- 近江源氏・佐々木氏の流れをくむ六角家の当主で、将軍家を支えた
- 浅井長政に野良田の戦いで敗れ、家臣が離れる観音寺騒動も起きた
- 信長の上洛軍に観音寺城を追われたあとも、甲賀を拠点に抵抗を続けた
目次
名門・六角家
六角家は、鎌倉時代から近江の守護をつとめた佐々木氏の流れをくむ名門である。義賢は父の定頼から家を継ぎ、観音寺城(滋賀県近江八幡市)を本拠に、将軍・足利義輝を支えて三好長慶と戦った。
浅井家の独立と観音寺騒動
永禄3年(1560年)、北近江の浅井長政が六角家からの独立をはかり、義賢は野良田の戦いで長政に敗れた。
永禄6年(1563年)には、子の義治が重臣の後藤賢豊を殺したことで家臣たちが反発し、一時観音寺城を追われる観音寺騒動が起きた。この騒動で六角家の力は大きく弱まった。
信長との戦い
永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛する織田信長は、六角家に協力を求めたが、義賢はこれを断った。信長は箕作城を一日で落とし、義賢は戦わずに観音寺城を捨てて甲賀に逃れた。
その後も義賢は甲賀を拠点に、浅井・朝倉家や一向一揆と組んで信長に抵抗したが、六角家が大名として返り咲くことはなかった。晩年は豊臣秀吉のもとで暮らしたと伝わる。
六角義賢をめぐる人物
- 父:六角定頼
- 子:六角義治
- 戦った相手:織田信長/浅井長政/三好長慶
- 支えた将軍:足利義輝
ゆかりの地
- 観音寺城跡(滋賀県近江八幡市・東近江市):六角家の本拠。日本100名城
- 箕作城跡(滋賀県東近江市):信長に一日で落とされた城
- 甲賀(滋賀県甲賀市):城を追われたあとの拠点


浅井長政
織田信長
足利義輝
三好長慶







































