豊臣秀長の家臣団を時期別に総解説|最古参は誰?長浜・但馬・大和郡山時代を支えた家臣たちと、秀長の死後の運命

大和郡山城の広間で、年齢も装いもさまざまな家臣たちを前にする豊臣秀長を描いた日本画風イラスト

大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公・豊臣秀長は、最後には大和・紀伊・和泉の約100万石を治める大大名になりました。その広い領国を支えたのが家臣たちです。では、秀長のいちばん古い家臣は誰で、どの時期に誰が加わり、そして秀長が亡くなったあと彼らはどうなったのでしょうか。この記事では、秀長の家臣団を「長浜時代」「但馬・播磨時代」「大和郡山時代」の3つの時期に分けて紹介し、最後に全員のその後をまとめます。

先に答え

秀長の家臣団でいちばん古くから名が知られるのは、天正4年(1576)に仕えた藤堂高虎です。兄・秀吉の長浜時代に、高虎・小堀正次・羽田正親ら近江の人材が集まり、これが家臣団の土台になりました。

但馬・播磨時代には桑山重晴や本多利久ら経験豊かな武将が加わり、大和郡山時代には横浜一庵を筆頭とする三家老が領国を動かしました。

秀長の死後、家臣たちの運命は「豊臣家のなかで命を落とした人」「関ヶ原で西軍について家を失った人」「東軍について徳川の世を生きた人」の3つに分かれました。

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目次

秀長の家臣団 3つの時期

秀長は、兄・秀吉の出世にあわせて任される土地が変わっていきました。そのたびに新しい家臣が加わっています。まずは時期ごとの流れを表で見てみましょう。

時期秀長の立場この時期に名が見える主な家臣
長浜時代
(天正元年〜5年ごろ)
兄・秀吉の長浜城で、一門として兄を支える藤堂高虎・小堀正次・羽田正親・宇多頼忠・吉川平介
但馬・播磨時代
(天正5年〜12年)
中国攻めで但馬を平定。のち姫路城を任される桑山重晴・本多利久・本多俊政
大和郡山時代
(天正13年〜19年)
大和・紀伊・和泉の約100万石の大名。大和郡山城が本拠横浜一庵・小川下野守・杉若無心・多賀秀種

※いつ仕えたのかがはっきりしない家臣も多く、表は「その時期に名前が見える」ことを目安に分けています。

最古参は誰? ― 長浜時代に集まった近江の家臣たち

秀長の家臣団の出発点は、兄・秀吉が近江の長浜城主になった天正元年(1573)ごろです。秀長は兄の一門として長浜で働き、このころに近江出身の家臣たちが集まりました。

藤堂高虎 ― 名前がわかる最古参

藤堂高虎は近江の出身で、浅井家などいくつもの主君に仕えたのち、天正4年(1576)に秀長に仕えました。はじめは300石ほどだったといわれます。秀長のもとで中国攻めや四国攻めに加わり、のちには紀伊粉河の城主として城の普請を任されるまでになりました。秀長の家臣団のなかで、仕えた時期と経歴がはっきりしている最古参の一人です。

小堀正次・羽田正親 ― 近江出身の実務家たち

小堀正次は近江の出身で、浅井家が滅んだあと秀吉に仕え、やがて秀長の家老となりました。のちに紀伊や大和の検地を担う実務の専門家です。羽田正親も近江蒲生郡の出身で、のちに三家老の一人として大和の小泉城や宇陀松山城を預かりました。

宇多頼忠・吉川平介

宇多頼忠(もとの姓は尾藤)は、天正3年(1575)ごろに兄の尾藤知宣とともに秀吉に仕えて長浜へ移ったとされ、のちに秀長の直臣となりました。船と山林を任された吉川平介も、長浜の商人だったという説があります。

長浜時代の家臣に近江出身者が多いのは、秀長が兄の領地だった近江で人を集めたからだと考えられます。この近江の人脈が、秀長の家臣団の土台になりました。

但馬・播磨時代 ― 中国攻めで加わった歴戦の武将

天正5年(1577)から、秀吉は信長の命で中国地方の毛利氏攻めにとりかかります。秀長は但馬の攻略を任され、のちに但馬一国を与えられました。天正11年(1583)には、兄が大坂へ移ったあとの姫路城も任されています。この時期には、戦いの経験が豊かな武将たちが秀長のもとに加わりました。

桑山重晴 ― 秀長より10歳以上年上の老練の将

桑山重晴は尾張の出身で、賤ヶ岳の戦いでは砦を守りました。その手柄で但馬の竹田城を与えられ、秀長に属するようになります。秀長より10歳以上年上で、のちに和歌山城代として紀伊の支配を任されました。

本多利久・俊政 ― のちの高取城主父子

本多利久は尾張の織田信安に仕えたのち秀吉に仕え、やがて秀長の家臣となりました。天正7年(1579)の三木城攻めで手柄をあげています。子の本多俊政も秀長に仕え、賤ヶ岳の戦いなどに加わりました。

大和郡山時代 ― 100万石を動かした三家老と城主たち

天正13年(1585)、四国攻めと紀州攻めのあと、秀長は大和・紀伊・和泉をあわせて治める大名となり、大和郡山城を本拠にしました。領国が一気に広がったことで、家臣団も大きく組みかえられます。

三家老 ― 横浜一庵・羽田正親・小川下野守

大和入国のころから名前が見えるのが横浜一庵です。家中で最も多い5万石を与えられ、寺社の力が強い大和で、興福寺との取次役を務めました。一庵、羽田正親、小川下野守の3人は「三家老」と呼ばれ、秀長の領国を動かす中心になります。小川下野守は、実名も生没年もはっきりしない謎の多い人物です。

城をまかされた家臣たち

広い領国を守るため、各地の城には信頼できる家臣が置かれました。

城国城主・城代
和歌山城紀伊桑山重晴(城代)
粉河城紀伊藤堂高虎
田辺(泊山城・上野山城)紀伊杉若無心
広城紀伊宇多頼忠
高取城大和本多利久
小泉城 → 宇陀松山城大和羽田正親

紀伊の田辺を任された杉若無心は、もとは越前の朝倉家に仕えていた人物で、いつ秀長のもとへ来たのかははっきりしません。天正18年(1590)には、小田原攻めの最中に兄の堀秀政を亡くした多賀秀種が秀長の与力となり、大和の宇陀松山城を任されました。秀長の家臣団に加わった、最後の世代の一人です。

秀長の死後、家臣たちはどうなったか

天正19年(1591)に秀長が亡くなり、跡を継いだ豊臣秀保も文禄4年(1595)に急死して、大和大納言家は絶えました。家臣たちのその後をまとめると、次のようになります。

人物秀長の死後結末
吉川平介(秀長の生前)天正16年、材木の不正で処刑秀長の生前に死去
羽田正親秀次に仕える秀次事件に連座して自害(文禄4年)
横浜一庵秀吉の直臣慶長伏見地震で圧死(慶長元年)
小川下野守―行方はわからない
杉若無心秀吉の直臣関ヶ原で西軍、改易
宇多頼忠秀吉の直臣関ヶ原で西軍、佐和山城で最期
多賀秀種大和宇陀2万石の大名関ヶ原で西軍、改易。のち前田家へ
藤堂高虎伊予宇和島の大名関ヶ原で東軍。伊勢津藩の祖
桑山重晴和歌山城代を続ける関ヶ原で家康方、83歳まで生きる
小堀正次秀吉の直臣関ヶ原で東軍。備中の代官・大名に
本多利久・俊政高取城主俊政が関ヶ原で東軍。高取藩の初代藩主に

こうして並べると、家臣たちの運命は大きく3つに分かれたことがわかります。

1つ目は、関ヶ原より前に豊臣家のなかで命を落とした人たちです。吉川平介は秀長の生前に処刑され、羽田正親は豊臣秀次の事件に巻きこまれ、横浜一庵は大地震で亡くなりました。

2つ目は、関ヶ原で西軍について家を失った人たちです。杉若無心と多賀秀種は所領を没収され、宇多頼忠は娘婿の石田三成の城で最期をとげました。

3つ目は、東軍について徳川の世を生きた人たちです。高虎、桑山、小堀、本多は、秀長の家で身につけた築城や検地、城の守りの力を、今度は徳川家康のもとで生かしました。くわしくは秀長の家臣は徳川の世で何をしたのかで紹介しています。

まとめ

秀長の家臣団は、長浜時代の近江の人材を土台に、但馬・播磨時代の歴戦の武将、大和郡山時代の三家老や城主たちが加わって大きくなりました。最古参の藤堂高虎から、最後の世代の多賀秀種まで、秀長はそれぞれの得意な仕事を見きわめて任せています。秀長の死後、家臣たちの道は大きく分かれましたが、秀長の家で育った人たちが江戸時代の国づくりにまで影響を与えたことは、秀長という人物の大きさを物語っているといえるでしょう。役割ごとの一覧は豊臣秀長の家臣一覧をご覧ください。

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